関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

細川忠興の陣跡碑

R0033444_R.jpg
上掲の写真は、細川忠興(ほそかわただおき)の陣跡碑です。関ケ原町内の陣跡碑としては最も新しく、今年3月に建立されたばかりです。背後に、黒田長政と竹中重門が布陣した岡山(丸山)が写っています。


                             


忠興は、古今伝授(こきんでんじゅ)の歌人としても知られる細川藤孝(ほそかわふじたか=細川幽斎(ゆうさい))の嫡男(ちゃくなん)です。忠興本人も、激しい気性を持つ武闘派でありながら、利休七哲(りきゅうしちてつ)のひとりに数えられるほどの茶人であり、甲冑(かっちゅう)や刀の拵(こしらえ)に造詣(ぞうけい)の深い文化人でもありました。細川家は父子二代にわたって織田信長に仕えた格式ある家柄で、強者(つわもの)ぞろいの豊臣恩顧(おんこ)の武将たちも、そんな忠興の言には素直に従うところがあったようです。

忠興の妻は明智光秀(あけちみつひで)の娘の玉子(たまこ)です。敬虔(けいけん)なクリスチャンであった玉子は、細川ガラシャの名でよく知られていますが、石田三成(いしだみつなり)挙兵の際、三成ら西軍の人質になるのを拒み、家臣に胸を突かせて亡くなりました。自刃(じじん)しなかったのは、キリスト教が厳しく自殺を禁じていたからだと言われています。

一方、忠興の父の幽斎も東軍支持を鮮明に打ち出し、領国である丹後(たんご)の田辺(たなべ)城に籠城(ろうじょう)しました。田辺城は西軍の軍勢に囲まれましたが、城はなかなか落ちません。
幽斎の死によって古今伝授の絶えることを憂えた後陽成(ごようぜい)天皇の勅命(ちょくめい)によって、幽斎はようやく城を明け渡すことに同意しましたが、西軍諸隊を長く丹後に釘づけにした彼の戦いぶりは、東軍にとって隠れたファインプレーであったと言えそうです。

関ケ原合戦当日、忠興は、黒田長政(くろだながまさ)らとともに、石田三成本隊と激しく戦い、多くの戦功をあげたといいます。戦後も順調に加増を重ね、その子忠利(ただとし)の時代には熊本54万石の大大名となりました。

なお、上掲の細川忠興の陣跡碑には、忠興が愛用したといわれる越中頭形兜(えっちゅうずなりかぶと=関ケ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ケ原合戦図屏風」の中でも着用しています)と歌仙拵(かせんごしらえ)の名刀兼定(かねさだ)が描かれています。

関連記事
スポンサーサイト

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。