関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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決戦地碑

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決戦地碑近景。強い西風に大幟がはためいています。


R0033490_R.jpg決戦地碑遠景。背後の右手に見える丘が石田三成陣地のあった笹尾山です。


                             


小早川秀秋(こばやかわひであき)とそれに続く脇坂安治(わきざかやすはる)ら四将の裏切りによって、それまで善戦していた西軍諸隊は相次いで敗走していきました。

三成の首を討ちとろうと押し寄せる東軍に対し、生き残った石田隊の将兵たちも、最後の力をふりしぼって応戦します。石田隊の雄(ゆう)、蒲生郷舎(がもうさといえ)が、織田有楽(おだうらく)の降伏を勧(すす)める言に逆上(ぎゃくじょう)して斬りかかり、有楽の家臣らに討ち取られたのも、決戦地碑の立つこの辺りだったかも知れません(異説あり)。

関ケ原町有志の皆さんが、当時(実際は多少年代が下がる)の検地帳(けんちちょう)等によって調査した結果、決戦地周辺には当時から田畑が広がっていたことが分かってきました。また、残された文書(もんじょ)から、農民たちが戦禍(せんか)を避(さ)けて山中に逃れていたことも明らかになっています。

天下分け目の関ケ原合戦は、ここ決戦地碑付近での激闘を最後に幕を下ろしましたが、この戦いの影響は長くこの地に残ったに違いありません。

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