関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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藤堂高虎・京極高知陣の陣跡

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関ケ原中学校内にある高虎・高知の陣跡碑。校門を入ってすぐ右手の緑地に立っています。



藤堂高虎(とうどうたかとら)と京極高知(きょうごくたかとも)の隊は、東軍の第二陣として、知将として名を馳(は)せる大谷吉継(おおたによしつぐ)の隊と闘いました。

最初は大谷隊に押されぎみでしたが、小早川(こばやかわ)隊、さらに大谷隊に付いていたはずの、脇坂安治(わきざかやすはる)・小川裕忠(おがわすけただ)・朽木元綱(くつきもとつな)・赤座直保(あかざなおやす)の隊が加わり、大谷隊を殲滅(せんめつ)に追い込んでいきました。

藤堂高虎は生涯の間に幾度も主(あるじ)を替えていますが、秀吉の死後はすぐに、次の天下人となるであろうと考えた、徳川家康につきます。
戦国時代当時、武将の価値観は「いかに家名を生き残らせるか」で、その当時はもっともな行動でした。

関ケ原合戦の三週間ほど前、織田秀信(おだひでのぶ)が居た岐阜城を攻略し終わった池田輝政(いけだてるまさ)、福島正則(ふくしままさのり)ら東軍の先陣は、続いて三成がいた大垣城を攻めようとしました。
この時はまだ江戸にいた家康を、到着まで待とうと諸将を説得したのは高虎でした。
その結果、家康は関ケ原合戦参戦に間に合いました。
これらの行動によって高虎は、さらに家康の高い信頼を得ました。


高知の京極家は近江の名門で、兄の京極高次(たかつぐ)も、行動は別ですが東軍に参加します。
高知は、大津城で籠城(ろうじょう)する兄に対し、東軍の情勢を逐一報告します。
それに励まされ、高次は、西軍の立花宗茂(たちばなむねしげ)らの猛攻を耐え抜きます。
その結果、宗茂らの関ケ原への到着が遅れ、東軍の勝利に貢献しました。

なお、本陣跡碑は関ケ原中学校の敷地内にありますので、
見学にあたってはご配慮のほどをお願い申し上げます。
藤堂高虎・京極高知陣の陣跡
陣跡碑の左は高知の軍旗、右の黒字に白丸は高虎の軍旗。

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