関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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田中吉政の陣跡

関ケ原合戦 田中吉政の陣跡
田中吉政(たなかよしまさ)は関ケ原合戦当時、三河国(現在の愛知県)岡崎10万石の武将でした。
吉政と、西軍の総大将の役割を担う石田三成(いしだみつなり)は、同じ近江(おうみ)(現在の滋賀県)の出身で、近くに住んでいたと言われています。
二人の家系は、ともに浅井(あざい)家の家臣であり、また仲が良かったとも言われ、そのため家康は、吉政は三成側に付いているのではないかと、警戒しました。



吉政は合戦で東軍の最前線、家康が最後に陣取った陣場野(じんばの)のすぐ近くに陣をかまえました。
9月15日朝からはじまった合戦は、午後2時ごろには勝敗が決まりました。

その日の夕方、家康は藤古(ふじこ)川の台地に本陣を移します。
この地で家康は、吉政や小早川秀秋(こばやかわひであき)、脇坂安治(わきざかやすはる)らに、三成の家族が籠城(ろうじょう)している「佐和山(さわやま)城を攻めよ」と命じます。
17日に城を落としたあと、「三成をつかまえたい」と吉政は家康に訴え、北近江の地理に明るい吉政は三成を探索することになります。

吉政の家来は9月21日、古橋村(現在の長浜市)で三成をとらえています。

三成は吉政に会ったとき吉政に、「田兵(たひょう)」と親しげに声をかけたと言われ、とらえられたときに強い腹痛をおこしていたので、三成の身を案じた吉政は、にらがゆでもてなしました。
にらがゆは、にらが入っているおかゆで、お腹にくる風邪に良いためでした。
三成はお礼に、秀吉から授かっていた「今日まで身を離さず秘蔵(ひぞう)せし」、大切な短刀を授(さず)けました。

吉政は三成を生け捕りにしたことで、その功績により家康の疑念をはらしました。
合戦後に吉政は、筑後柳川(ちくごやながわ/現在の佐賀県)32万石へと、大きく加増移封(いほう)されます。
吉政は移封先で柳川の掘割を整備したり、干拓を進めるなど、まちおこしを積極的に行います。

道を挟んで北西に徳川家康最後陣地があります。
また近くの関ケ原町歴史民俗資料館にトイレ、駐車場があります。
関ケ原合戦 田中吉政の陣跡
陣跡には田中吉政の左三つ巴の軍旗があります。

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-1 Comments

山口久美子 says..."田中吉政"
柳川は、福岡県ですよ。筑後の国ですから、現在も佐賀県ではありません。
スタッフさんのブロクらしいですね。
より一層頑張って下さい。
2015.08.16 11:33 | URL | #- [edit]

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