関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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本多忠勝の陣跡

兜(かぶと)に鹿の角のような装飾をほどこし、豪胆で名をはせた本多忠勝(ほんだただかつ)。
生涯、50以上の戦いに出陣、一度も負傷しなかったと言われます。

  

長く徳川家に仕え、関ケ原合戦では500名に満たない小隊にて参加します。
本多隊の主力は、徳川家康の嫡男(ちゃくなん)、徳川秀忠(ひでただ)に率いられ、西美濃には到着していませんでした。

秀忠率いる隊は、先陣を務めることができる精鋭部隊であり、家康側に結集している諸将の現状は、豊臣恩顧の武将がほとんどであったのです。
そのために家康は、秀忠を待っていたのです。

ところが9月14日になっても、中山道の信州本山宿(長野県塩尻市)付近を関ケ原に向け、急ぎ進軍中でした。
家康は忠勝、井伊直政(いいなおまさ)と相談します。

すると忠勝は、秀忠隊を待つことを主張し、直政は、即時決戦を主張します。
家康は結局、秀忠を待たずに決戦に挑むことを決めました。

秀忠到着を待っていると、大坂の毛利輝元(もうりてるもと)が豊臣秀頼(とよとみひでより)をいただき、出陣する恐れがありました。
そうなると、勝機を逃がす恐れがあったからです。



こうして9月15日、決戦日。
忠勝、直政率いる隊は、家康直属の部隊として活躍をします。
忠勝は味方の危機を、率いる十数人で救ったり、井伊直政とともに突撃を繰り返し、首級を90以上あげるなどします。
合戦が終わった直後、福島正則(ふくしままさのり)は忠勝の戦いぶりを家康に、「ききしにまされり」と評しました。
忠勝は武功だけでなく、合戦前後、直政とともに輝元、吉川広家(きっかわひろいえ)など、諸大名に誓紙(せいし)を多数送って、寝返り工作もしています。

これらの功績で家康は忠勝を、もともと伊勢国桑名藩(三重県桑名市)10万石に移封であったのに加えて、5万石を加増しようとしました。
しかし忠勝はこれを固辞(こじ)したため、忠勝の次男、本多忠朝(ほんだただとも)に5万石を与えます。

忠勝の陣跡は、住宅の脇から少し入った公民館の裏にあります。 
車の通り道から陣跡はわかりづらいので、忠勝の軍旗が外からの目印になります。
関ケ原合戦 本多忠勝の陣跡


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