関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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山内一豊の陣跡

山内一豊は一般には「やまうちかずとよ」と呼んでいますが、「かつとよ」とも呼びます。
信長、秀吉、家康の3人に仕えた、数少ない武将の一人です。
一豊と言えば、妻の千代(ちよ)の、内助(ないじょ)の功が有名です。



一豊が15歳の時、父が仕えていた岩倉織田(いわくらおだ)家が、織田信長(おだのぶなが)との戦いに破れ、父は亡くなります。
その後、母や弟妹とともに転々と流浪し、苦労をしています。
そのため一豊は、機敏に立ち回る術を身につけたのではないかと思われます。

天正18(1590)年、もともと秀吉の信頼が厚かった一豊は、秀吉の最初の城でもあった長浜城から、東海道の要所、掛川(かけがわ)城に転封(てんぽう)します。
役目は、江戸の徳川家康(とくがわいえやす)に対する、監視と守備でした。

その後一豊は次第に家康に近づき、慶長5(1600)年6月、上杉景勝(うえすぎかげかつ)討伐の時には、東海道を下る家康に、自分の領地掛川にて接待をします。
一豊は生き残りのため、積極的に家康側につくことをしたと思われます。

同年7月24日、千代からの手紙で、開封しないで家康に届けるように書いてあった、文箱を受け取ります。
中には、増田長盛(ましたながもり)と長束正家(なつかまさいえ)連名による、諸将に西軍への加勢を促す文と、大坂の詳しい状況を書き記した文が入っていて、これにより家康は西軍の動向を逸早く知ることができました。
また一豊は7月25日の小山評定(おやまひょうじょう)では、自分の城を明け渡し、家康に提供すること、二心(にしん)がないことを明らかにするために、人質を出すことを、諸将に先がけて申し出ます。
聞いていた東海道沿いの諸将は誘われて、いずれも内府(家康)に城を差し出すことを誓います。
この気配りを、家康は大いに喜びます。

一豊は合戦では、家康が最初に布陣した桃配山(ももくばりやま)の近く、中山道沿いの野上(のがみ)に布陣します。毛利秀元(もうりひでもと)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らによる、背後からの攻めに備えていました。
毛利らが動かないことがわかると、家康は一豊を前線に移動させます。
関ケ原では目立った活躍はありませんでしたが、家康の一豊への信頼は深まり、合戦後は6万国から土佐(現在の高知県)国20万石の大名になります。

関が原の合戦 山内一豊の陣跡

山内一豊陣跡付近の中山道と松並木。
保存のため、関ケ原町では中山道沿いの松並木を、天然記念物に指定しています。



関ケ原の合戦 山内一豊の陣跡 中山道

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