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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

奥平貞治の墓 その1

奥平貞治(おくだいらさだはる)の墓は、元治元(1864)年に、子孫の奥平新左衛門源貞昭(さだあき)が北国街道沿いの地、関ケ原町内玉地区に建てました。
その後岐阜県不破古跡保存会により、その横に碑が建てられています。



関ケ原合戦の有名な東軍武将で、関ケ原町内に子孫の方が墓を建てられているのはここだけです。
貞治はどんな人か興味を持って、少し調べました。
貞治についてあまり資料がないため、奥平氏としての動向から補いたいと思います。

    

奥平氏は戦国時代、駿河(静岡県)の今川氏、三河(愛知県)の松平(徳川)氏、甲斐(山梨県)の武田(たけだ)氏と主君を変えます。

元亀3年(1572年)信玄は京都をめざすため、その道途中の遠江(とおとうみ)を攻めます。
信玄は巧みな戦術で家康を追い詰め、三方原の戦いでは家康は大敗北しています。


元亀4年(1573年)、武田信玄(たけだしんげん)死去を確信した奥平家当主、貞治の兄である奥平貞能(さだよし)は、武田氏から再び家康に付くことを決断し、一族を連れて亀山城を出て、家康の家臣になりました。
貞能は家康の命で対武田氏の最前線、長篠(ながしの)城(愛知県新城市鳳来町)の守備を担います。

2年後の天正3年(1575年)、1万5千の大軍を率いる武田勝頼(かつより)は、長篠城の再奪還のため、奥平隊500名が守る城を攻めます。
勝頼の猛攻と備蓄食糧が焼かれたため、落城寸前になりましたが、貞能と嫡子の貞昌(後の信昌)父子率いる奥平隊は、何とか持ちこたえます。

  

いよいよ城が落ちそうになると、家康に救援を求め、信玄亡き後も戦国最強と言われた武田軍に対し、戦力不足の家康は、織田信長に援軍を要請します。
信長家康の連合軍は家康8千と合わせ、3万8千の戦力で設楽原(したらがはら/愛知県新城市)にて、勝頼と戦いました。

これが有名な長篠の戦いで、勝頼は敗走し、以後次第に、武田氏は衰退していきます。
長篠城の籠城は、戦略的にとても意義があったので、信長は奥平家の功績をほめ称えます。


最大の敵、武田氏を退けた信長は、天下統一に向けて大きく弾みをつけ、戦国大名の勢力地図は大きく変わっていきます。
一方この戦いで家康は、三河を安心して治めることができるようになり、疲弊した領内を立て直す時間を得ました。



この当時の貞治ですが、大正8(1919)年3月建之(けんし)の貞治の碑の裏に「奮戦シテ死ス時二二十八」と刻んであることから、慶長5(1600)年関ケ原合戦時は28歳です。

計算すると貞治が生まれたのは元亀4・天正元(1573)年。
この年、武田信玄が作戦途中、病にて亡くなっています。

兄の貞能が長篠城に籠城していた時、貞治は3歳と推測されます。
満で言うと貞治は2歳なので大変厳しかった城の戦いも、ほとんど記憶にないかもしれません。
しかし父兄や家臣は、その戦いの様子をくりかえし話したのではないでしょうか。


関ケ原合戦 奥平貞治の墓
関ケ原町玉(旧玉村宿)地内を通る旧北国街道(北国脇往還)を少し入った所に、墓と碑がひっそりとあります。

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