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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

奥平貞治の墓 その2

貞治が、長篠の合戦に参加したという話があります。

昨日のブログでは、碑に書いてある歳より考えた、貞治の生まれたことについて書きました。
この説に立つと年齢的に、長篠の戦いには参加はできなくなります。

引き続き、調べてみたいと思います。


その後の貞治ですが、秀吉に取り立てられ、馬廻衆(うままわりしゅう)、つまり秀吉の側近になったと言われます。





慶長5(1600)年、天下統一を成し遂げた秀吉が亡くなって2年、家康は着々と秀吉恩顧(おんこ)の大名を味方に取り込んでいました。
家康は石田三成との合戦が避けられないようになると、黒田長政(くろだながまさ)らを通じ、小早川秀秋(こばやかわひであき)に東軍に付くように約束をさせていました。
家康は秀秋が年若く、本当に約束通り東軍として戦ってくれるかどうか、疑いの目でみていました。

そこで家康は奥平貞治(おくだいらさだのぶ)に、秀秋を監視させます。
東軍西軍の均衡する軍勢を考えると、この役割は非常に大きなものでした。


合戦が始まってしばらく動かなかった秀秋が動くと、秀秋の近くにいた貞治は、先頭をきって大谷吉継の隊に向かっていきました。

大谷隊は、朝から戦闘に加わっていたので勢いは衰えていましたが士気は高く、押し寄せてくる小早川隊に対し頑強に抵抗し、松尾山まで押し返したとも言われています。
対する貞治は小早川隊を鼓舞して戦い、自らは討ち死にします。

小早川隊にとって、揺るぎない気持ちで参戦した貞治は、大きな力となったと考えられます。
碑の裏には、「秀秋軍監ノ死ヲ見テ諸将ト共二力戦シ遂二大ニ西軍ヲ破ル」とあります。

小早川隊が戦闘に加わったことで、さらに脇坂隊らも加わり、東軍は勝機をつかんだのです。


合戦後、家康は貞治の功績を認め、跡継ぎがいなかった貞治の母親に、200石を与えます。
家康が賞罰を与えた武将の中で、貞治のような例は他にありません。
秀秋を動かしたことを、恩義に感じたのかしれません。


関ケ原合戦 奥平貞治の墓 奥平家の軍旗
夏の青空の下、奥平家の軍旗

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