FC2ブログ

関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

奥平貞治の墓 その3

奥平家の系譜より、もう一度貞治を見てみます。


貞能(貞治の兄)の嫡男、信昌(のぶまさ)は、関ケ原合戦では南宮山の麓に陣し、徳川本隊への背後からの攻めに備えていました。
信昌は、貞治の甥になります。

信昌の正妻は家康の長女、亀姫(かめひめ)で、亀姫は家康の正室、築山殿(つきやまどの)の娘です。
長篠の戦いの翌年、天正4(1576)年に嫁入りし、この結婚は三河の防備上、奥平家の力がどうしても欲しかった、家康からの申し出によりなったものです。


信昌は合戦後の慶長6(1601)年、中山道を西から守る拠点、美濃加納(岐阜市)10万石へと、加増させられます。
次々と主君を変えた奥平氏ですが、家康の信頼はとても厚かったと考えられます。


たとえば信昌の長男は家康の目前で元服し、家の字をあたえられた後、家昌(いえまさ)を名乗ります。
関ケ原合戦の時は徳川秀忠の配下にいて、信州上田城(長野県)を攻めていました。
合戦後は、下野宇都宮10万石を領し38歳で亡くなります。

次男は家康の養子となり、家康より家の字をあたえられて家治(いえはる)を名乗り、上野国多胡(たこ)郡(群馬県高崎市、藤岡市の一部)に領地を与えられますが、14歳にて亡くなります。

三男の忠政(ただまさ)は松平姓をあたえられ、美濃加納2代藩主(加納藩主松平家としては初代)になります。

四男の忠明(ただあきら)は家康の養子となり、大阪の陣の後、大坂城主となり、さらに姫路藩松平(奥平)家初代藩主になります。
大坂の陣が終った後に、大坂を復興させる都市づくりを行っています。


奥平家は後に、正成(家昌から5代目)の代より豊前国中津(大分県中津市)に移り、徳川御連枝(ごれんし)として中津の地で、明治維新まで存続します。
御連枝とは天皇家でいうと、宮家に当たる家系を指す言葉で、ここでは江戸時代、徳川御三家から分家した大名家、徳川の血を引く名門であることを示しています。


子孫が関ケ原に、墓を建てたのはなぜだろうかと考えました。

元治元(1864)年というと幕末です。
徳川幕府の下で、大きな争いごとが少なかった時代が終わりつつありました。
元治という年号が1年強しか続かなかったぐらい、再び乱世になり、前年には薩英戦争や、新選組が結成されるという出来事がありました。



信長に敗れるまでは、天下を取るかもしれないと言われた今川氏、また戦国最強といわれた武田氏、後に天下を取ることになった松平(徳川)氏。
三氏の狭間で、主君を変えながら奥平一族は、必死に生き延びようとしました。
家康の下で出世し、大名の家臣から城持衆、譜代大名となって明治時代まで続きます。


この時代、奥平家に数々の犠牲者が出ました。
天正元(1573)年に武田家から徳川家に寝返ったことで、勝頼の怒りを買い、貞治の甥の仙丸、従姉妹ら人質3人が、磔(はりつけ)にされたこともありました。(「新訂寛政重修諸家譜」より)


実は家康は、貞治の従姉妹が磔になったことを憐れみ、その妹を松平隠岐久松の嫁にと嫁がせています。(「新訂寛政重修諸家譜」より)
犠牲になった話は、家康の義理の息子である、信昌より聞いたのでした。


松平隠岐久松は松平定勝(さだかつ)のことで、家康の異父兄弟です。
家康は最初は疎んじていたのですが、18歳も離れていたので、やがて定勝のことを可愛がるようになったと言います。


松平定勝は後に久松松平家、伊勢桑名藩主(三重県桑名市)として明治維新まで存続します。
子孫の方で、アナウンサーの松平定知(さだとも)さんがおられます。





貞治は三男であったためか、記録はあまり残っていません。
ひょっとしたら関ヶ原合戦まで、めだった働きがなかったのかもしれません。


貞治は関ケ原合戦の日、秀秋の近くで東軍が不利な状況を見ながら、重要な役目を授かったことを誇りに、ここぞとばかり、自分が与えられた仕事を全うしようとしたと思われます。


奥平家のために尽くしてくれた、家康の期待に応えようと、たとえ死んでもと、思うようになっていたのかもしれません。


この時、若くしてなくなった甥(14)や従姉妹のことが、脳裏に浮かんだのかもしれません。



たしかに、政略的な結婚や養子縁組を、家康は幅広く行っていました。

とりわけ奥平家とたくさんの結婚や養子縁組を行ったのは、奥平家に今後も重要な役目をまかせようという気持ちがあったからでしょう。
同時に、勝頼との争いで三河の安定に大きな役割を果たした奥平家に、感謝の気持ちもあったと考えられます。



墓を建てた奥平新左衛門源貞昭という子孫の方ですが、この方についてはよくわかりません。
江戸時代なので、この地に墓を作るのは容易でなかったと思われます。

これから奥平家がどうなっていくかわからないという、社会不安な情勢が背景にあったと思われます。
貞治を供養し、家共々無事なことを願い、264年前の忘れ去られようとしていた貞治の一世一代の大仕事を、今一度振り返ろうとしたのかもしれません。


引き続き、貞治のことを調べてみたいと思います。
なお旧街道は道が狭く、近くには駐車場はありませんので、ご注意下さいませ。

  

関ケ原合戦 奥平貞治の墓 北国街道
関ケ原宿の次の宿、玉村宿が江戸時代までありました。
この写真の右側に、国道356号線が並行してあります。


関ケ原合戦 奥平貞治の墓 北国街道
旧街道沿いに設置してある案内板。


関ケ原合戦 奥平貞治の墓 北国街道
沿線には、街道らしい風景が今も続いています。北国街道は、太平洋と日本海を結ぶ街道の一つでした。関ケ原合戦でも、重要な役割を果たしています。


関連記事
スポンサーサイト



Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する