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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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島津義弘の陣跡2  家康と義弘

合戦があった慶長5(1600)年9月15日。
陣跡のある小池地区は、実際には義弘の甥、島津豊久(とよひさ)が島津の先陣として、布陣したと言われます。
一方義弘の本陣は、陣跡よりおよそ100m西北の薩摩池付近(小関地区)にあったようです。
義弘は66歳、豊久は31歳の時で、二人は親子ほどの歳の違いがありました。

 

西軍全体で兵力はおよそ8万で、島津は通説では、兵力1500だったと言われます。(参謀本部編纂(へんさん)「関ケ原の役(以下、「関ケ原の役」と略)」など参考)
残っている記録を元にして加算すると、もう少し少なく1300弱でなかったか、とも言われます。
なぜこのような少数兵力で参加するようになったのかというと、本国の援助がなかなか得られなかったことがあります。


日本全国、東西別れての決戦が、ほとんどの武将の頭の中になかった慶長5(1600)年4月27日、義弘は薩摩から大坂に上り、家康と会います。
庄内の乱で、世話になったお礼をするためでした。
家康はこの日、上杉景勝の返事次第で会津征伐に出陣する可能性を伝えます。
その場合、兵を連れて行くので城の守りが手薄になる。
義弘に伏見城の留守番をして欲しいと、申し出たのです。


義弘は申し出を受けました。
巨大な伏見城の守りの一端を、しっかりと務めるつもりでした。
しかし手勢わずか200ぐらいなので、兄の義久(よしひさ)に兵の増強を希望しました。
増強は、かないませんでした。


島津は長く続いている戦のため、財政状況が逼迫してこともありました。
京都、大坂と、遠く離れた薩摩の間の距離感が、緊急性の温度差をもたらせていたのでないでしょうか。
義久は義弘が言うように、それほど家康に力を貸す必要性を感じなかったのです。
京や大坂がいかになろうと、島津は島津でやっていくという自負心もあったのではないでしょうか。




義弘はその頃、家康に従おうとしていました。
家康もまた、自分から義弘に会ったりするなど、積極的に義弘、また島津を取り込もうとしていました。
朝鮮での泗川(サチョン)の役で、兵力10万と言われる明・朝鮮の連合軍に対し、島津ははるかに少ない兵力で勝利します。
その実力を恐るべしと評価し、敵にまわしたくないと思っていたからでした。
義弘側も冷静に見て、諸将の中で、勢いは家康にきていると、政治的な判断もあったように思われます。





そうしている間に、三成らが家康に対し挙兵し、西軍が大坂を占拠したことで風向きが変わりました。

7月15日、前田玄似(まえだげんに)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)の3人は、大坂に居る諸将に交代で哨兵(しょうへい)を出させ、主な道を守備するように命じ、大坂に出入りする人間を監視させ、特に大名の妻子で帰国しようとするものを、留め置きました。(「関ケ原の役」参照)

翌16日、細側ガラシャの元に使者が来たので、この日と考えられますが、三成は以前から計画していたとおり、大坂城下や伏見城にいる、家康に従って会津征伐に行った諸将の妻を人質にしました。
家康側につこうとするものを、見方にするためでした。



7月17日、西軍は公然と、諸将に挙兵を宣言すべく行動に移しました。
玄似・長盛・正家の3人は、西軍決起の大義名分を書いた西軍への誘いかけの文書を送ったのです。

家康は秀吉の死後、秀吉の違令(いれい)に反し、大坂城西の丸に天守閣を建てるなどをします。
こうした行いを「罪状」として13箇条にわたり列挙します。
「内府ちがひの条々」という有名な書状です。

こうした中でこの日、人質になることを拒否し、自害する事件が起こりました。
細川忠興(ただおき)の正妻、玉(ガラシャ)です。

IMG_2948_R.jpg
小関地区にある薩摩池。義弘がこの付近に布陣し、軍用に使われたと言われています。

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