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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

島津義弘の陣跡3  島津の台所事情

島津の関ケ原合戦での行動を見ると、なかなか外からはわかりにくいことがあります。
島津が関ケ原に来るに至った背景、義弘の参戦動機をもうすこし見てみます。



島津の財政状況について、興味ある記録があります。
慶長4(1599)年、義弘または家老が、家康から黄金200枚(2000両)を借りて、利息の返済に充てている記録が、「鹿児島県史料 旧記雑録後編(以下、「旧記雑録」と略)」に残っています。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口-敵中突破300里(学研新書)(以下「島津の退き口」と略)」から引用、以下も同書参考)

また同年3月2日に、家康より義弘・忠恒(ただつね、義弘の嫡男)あてに、「疎略(そりゃく)毛頭これあるまじき事、付(つけたり)、抜手(ぬきて)表裏(ひょうり)これあるまじき候事」と、血判(けっぱん)付で書状を送っています。
粗末に扱うことをしないことや、さらに、表裏がないことを、この書状では義弘、忠恒に誓っています。
家康はたくさんの書状を、特に関ヶ原合戦前に送っていますが、誰にもこのような書状を出しているわけではないので、特別に島津に気を使っていることがわかります。



2000両は今の貨幣価値に換算して、少なく見ても億は越えています。
借りる目的が利息返済というと、かなり財政的に危機状態にあることが想像されます。
秀吉は朝鮮出兵で、無理な軍役を諸将に課します。
この役で島津は、少ない兵力で大軍を退ける数々の奇跡的戦果を上げてきましたが、秀吉に屈服し、朝鮮出兵を強いられ、南九州に押し込められたことが、財政危機の原因でした。

やむにやまれない事情があったにしても、家康と島津の間にお金の貸し借りがあったことは、親しい間柄であったのでしょう。
ひょっとしたら家康の借金は、関ケ原合戦の時もまだ返済してなかったのかもしれません。

また島津は江戸時代になって参勤交代が始まると、福島正則にお金の都合をしてもらって江戸に向かうということもありました。
島津と中央との果てしなく遠い距離が、島津にとって重い負担でした。



この二つのエピソード以外に、秀吉亡き後、家康は義久、義弘、忠恒、それぞれの立場を考えながら、微に入り細に入り、機敏な対応をしています。
その結果、頼り、頼られる関係を築いていました。


 なお8月晦日(みそか、月の最終日のこと)付けで、西軍の毛利輝元(もうりひでもと)と宇喜多秀家(うきたひでいえ)連署で、忠恒に島津の財政を考慮した書状を送っています。
すでにこの時期、義弘は西軍として行動し、岐阜城は落城、急遽三成は8月26日に大坂の輝元に援軍を要請します。東軍は大垣城の目の前、美濃赤坂に布陣していました。
困った西軍はまだ兵力を出し切っていない島津を見逃さず、義弘に相談した上で、頼りになる島津兵を呼ぶべく画策したと思われます。

書状は「玉薬御兵粮(ひょうろう)の儀は、公儀(民を支配するもの、豊臣家)より仰せつけられ候条、御人数有次第、御馳走この時に候」とあり、内容は「弾薬や食糧など支給されるから、あるだけの人を送ってくれ、(ご恩返しで)兵を動員する時は今である」とありました。(二木謙一著「関ケ原合戦」P169参考)
関ケ原の合戦 薩摩池 島津義弘の陣跡
義弘の陣地近くにあったと言われる薩摩池

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