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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

島津義弘の陣跡5  約束は守る

西軍が挙兵したことで、これより三成側を西軍、家康側を東軍と言います。

義弘は7月17日、東軍の元忠が籠城する伏見城に、入城を目的に兵を引き連れて来ました。
義弘はすでに、西軍が大坂で挙兵したことを知っています。
東西どちらに付くかで、島津の未来、家の存亡に関わることもありえます。
遠く離れた薩摩と比べ、情報をたくさん持ち、判断をもっとも的確にできる位置にいるのが義弘でした。



これまで義弘は性格もあるのか、独自の判断で行動することが多かったようです。
今回伏見城に来たのも、私が知る限りですが、本来なら主君で兄の義久に相談する必要があるのにかかわらず、自分の判断で行動をしているようです。
ここに、島津の複雑な事情も見え隠れしています。

義弘の関ケ原合戦の一連の対応を見ると、本国より遠く離れているためか、義弘が判断して動いている所がかなりあります。
現代と違って連絡をすぐに取ることが出来ないことがあるかと思いますが、それにしても兄の義久は、義弘の行動を見逃しているように見えます。

この頃、義久は家督を忠恒(義弘の嫡男)に譲ったとはいえ、実力では義久、義弘、忠恒という順番の「三殿」体制でした。(桐野作人著『島津の退き口』P32参照、以下同様)
豊臣政権の意向が反映されたこの体制が、島津の不安定さにつながっていました。
ここにきて、家康と三成が相争うことになり、さらに島津の基盤は揺れます。


義弘は、豊臣政権(以下、豊臣)に引き立てられ、豊臣に近い形でこれまできました。
天正15(1587)年、秀吉は島津を配下の大名にしてから、島津の強大な力を少しでも弱めるため、露骨に義久の権利を奪って他に与えたりします。
豊臣はさらに、義久に替えて義弘を当主とみなし、その後は義弘の長男の久保(ひさやす)、久保が若死にした後は、久保の弟の忠恒(ただつね)を当主とするなど、義久外しの内政干渉を継続してやってきました。
秀吉の死後は三成が、そのやり方を踏襲します。
こうした中で義久は豊臣とますます離れ、家康が近づいてきたことで、家康と親密になりました。


義弘は「お家」である島津のため、秀吉死後は三成に従順に従いながらも、最後は兄である義久をできうる限りたてます。
後の8月頃、嫡男の忠恒にその胸中を明かした書状があります。
「秀頼様御奉公と申し、御家御為と申し、拙者(せっしゃ)は一命を捨てる覚悟である。だから、恥辱(ちじょく)を顧みず御奉公の御下知(ごげち、命令のこと)に任せてきた」(桐野作人著『島津の退き口』P74参照、以下同様)
この本心は、伏見城に来たときも同じであったと考えられます。
格下の元忠に入城を頼むことすら、義弘にとっては本当は屈辱的であったはずなのです。





伏見城に来ると、家臣の新納旅庵(にいろりょあん)が使いとなって、元忠に入城を申し出ています。
前述の「覚」に書いてあったように、すでに2度にわたり入城を申し入れて、断られたあとです。
義弘の豪胆な性格から見ると、元忠の出方次第でどちらにつくかを変えるような優柔不断な態度であったとは考えられません。(桐野作人著『島津の退き口』P67参照、以下同様)


記録が残っていないので想像ですが、義弘が西軍に加わる理由として以下があります。
・「内府ちがいの条々」の書状を見ると、言うまでもなく「大義」は西側にある。
・島津は亡き秀吉公や三成の、これまでの御恩に報いなければならない。
さらに後ほど触れますが、島津の問題として、どうしても守らなければならない人がいました。


しかし義弘としては、
・家康と男と男の約束をした限りには、約束を守る。
・島津家の将来、義久の考えを尊重すると、家康につくべきである。
さらに、
・豊久など信頼できる家臣から、家康につくことを具申された。
これらから判断すると、義弘の本心は東軍の方に傾いていたと思われます。


東軍西軍のどちらか、元忠に断られたが、本当にどうしようもないのか、確かめに来たのではないでしょうか。


ところが城の守備隊は、家臣の旅庵に向けて発砲しました。
どうも元忠は、かなり頑固な性格であったようで、一度思い込むと人の意見には耳を貸さない人であったのかもしれません。
徳川だけで固めて籠城するつもりで、そんな性格だからこそ、家康も留守を頼むことが出来たのでしょう。
小早川秀秋による入城の申し出も、断っています。
なお先に守備を任されていた小早川秀秋の兄、木下勝俊(きのしたかつとし)は伏見城攻撃が始まる前に城を出ている。
西軍につながる可能性があると、元忠が追い出したとも言われます。
勝俊は、秀吉の正室、北政所の兄の子どもです。



命をかけてこの城を守り通す。
どちらにつくかわからない島津など、入城させることはできない。
それが元忠の、断る理由でした。


数々の武功を挙げた、戦国武将としてのプライドが、義弘にはあります。
なさけない気持ちと、怒り心頭になったのと、両方が想像できますが、自分の感情だけで島津の行方を左右させることはできません。


自分のすることは、島津の運命に関わってくる。
義弘はここで、ぐっとこらえて引き下がりました。

ひょっとしたら「おのれ」と、対戦しようとする家臣達に「ここは戦うときではない」と押さえる、そんな場面があったのかもしれません。


しかしこの一件により、東軍で参戦する機会を完全に失ったのです。

関ケ原の合戦 薩摩池 島津義弘の陣跡
薩摩池は小さな池ですが、水が枯れたことがないと言われています。
今年の夏は真夏日が記録的に続き、夕立はほとんど無く、さすがに水が枯れそうな状況でしたが、ようやく雨が降りました。

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