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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

松平忠吉、井伊直政陣跡

関ケ原 松平忠吉、井伊直政の陣跡
松平忠吉、井伊直政の陣跡
 このブログから、関ケ原合戦の1日の主な流れに沿って順次(じゅんじ)、ゆかりがある陣跡(じんせき)や碑(ひ)などの紹介をしていきます。
 合戦は慶長(けいちょう)5(西暦1600)年9月15日、午前8時からはじまり、午後2時過ぎにほぼ戦いが終わったと言われています。

 戦いでは、先陣(せんじん)を誰がするかは、手柄(てがら)にこだわる戦国武将にとってとても大事です。取り決めではこの日は、福島正則(ふくしままさのり)と決められていました。
 ところが正則は、豊臣恩顧(とよとみおんこ)の武将です。
 徳川家の戦いなのに、がまんならずと、松平忠吉(まつだいらただよし)、井伊直政(いいなおまさ)は数十騎(き)を率い、福島の隊列(たいれつ)の横を通り、最前線に立ちました。
 そのまま、前面に布陣(ふじん)する宇喜多秀家(うきたひでいえ)隊に、鉄砲を撃(う)ちはなったのです。
 驚愕(きょうがく)した正則は、この鉄砲をきっかけに宇喜多隊に突入(とつにゅう)し、短くも長い一日は始まったのです。

 忠吉は徳川家康(とくがわいえやす)の四男で、この合戦で初陣(ういじん)を21歳で飾りました。
 直政は娘婿(むすめむこ)の忠吉を補助するため、一緒に行動しました。
 直政は赤備(あかそな)えと言われる、朱色(しゅいろ)の甲冑(かっちゅう)や軍旗(ぐんき)で装備する部隊を組織しました。
 徳川四天王(とくがわしてんのう)の筆頭(ひっとう)と言われ、家康にたいへん頼りにされた猛将(もうしょう)です。
 直政は合戦日の前から、西軍に付いていた武将を、東軍に寝返(ねがえ)させるための工作活動を行い、東軍勝利に多大な貢献(こうけん)をしました。
 彼らはこの地で戦った、家康隊の中の数少ない武将です。
 二人は負傷するも、最後まで奮闘(ふんとう)しました。
 二人ともこの時の傷が元で、早世(そうせい)したと言われます。

 陣跡は東首塚(ひがしくびづか)の敷地(しきち)内、JR関ケ原駅のすぐ近くにあり、トイレがあります。
 近くの関ケ原町歴史民族資料館(れきしみんぞくしりょうかん)に、駐車場があります。
関ケ原 松平忠吉、井伊直政の陣跡 あじさい

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