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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

島津義弘の陣跡4  届かない手紙、輝元支配下の大坂

家康が急に、島津と親密な連絡を取るべく行動を開始したのは、秀吉が慶長3(1598)年8月18日に亡くなってからです。
人を介して連絡を取り、義久は11月12日に家康邸を訪問します。
それから後、義久、また義弘は、家康と親密に行き来をしています。


秀吉の死後、秀吉の遺志により秀頼は大坂に入り、またかなりの諸将は大坂に移動していました。
義弘は伏見に残り、伏見城内は寂しくなってましたが、依然として京と大坂を抑える要であり、秀吉が築いた守るに強固、豪勢なお城でした。
義弘は家康より守備の依頼を受け、即答は避けましたが、城に先に入っている将に従う気持ちで、家康からの正式な文を待っていました。


なおこの頃の情勢ですが、4月24、25日頃、家康は会津征伐の先鋒(せんぽう)として、福島正則、細川忠興、加藤嘉明などに内々に命令しています。
さらに5月3日、直江兼続(なおえかねつぐ)の返事を受け、諸将へ出陣命令を出しています。



伏見城の守将は、家康の古くからの家臣、鳥居元忠(とりいもとただ)でした。
元忠は、家康が大坂から会津征伐に行く途中、最後の別れをすませ、伏見城での討死(うちじに)も覚悟の上、城にいました。
義弘は待てども、家康直筆の伏見城入りを告げる書状は、なかなか届きませんでした。


まず最初の可能性として、家康がどこかで島津を見限ったことが考えられます。
しかしもし見限ったとすれば、秀頼の大老、前田利長や上杉景勝のように、何かの理屈を付けて行動を起こしています。
秀吉亡き後の家康の島津に対する行動を見ると、急に義弘を見限るとは考えられません。
なぜなら家康は、島津の力を警戒していたのです。


家康の心情になってみると考えられるのが、伏見城で家康が元忠と、今生の別れをしたことです。
家康は義弘と会ったおよそ2ヶ月後の6月17日、伏見城に寄ります。
その夜に元忠と会い、翌日は会津攻めのために江戸に向かいます。(「関ケ原の役」P327他、参照)


元忠は、家康が10歳になった頃から奉公しています。
家康の性格を、一番わかってくれていると言っても過言かも知れません。
元忠に加え、内藤家長、松平家忠と、すべて徳川で守ることができるので、どんなことがあっても命がけで、敵を足止めしてくれるだろうと安心してしまったのです。


家康は元忠と会ったとき、元忠が話の流れであまりに長く座っていたため、立つことが出来ないのを見て「手を引いてやれ」と言い、今宵の別れになるかもしれないと、涙を流したと言われます。(「関ケ原の役」P329他、参照)
素直に家康の行動を理解すると、徳川側の兵に加え、信頼する義弘も一緒に城を守ってくれると、信じていたことが想像できます。

他にもいろいろな理由が考えられるのですが、一つはこの時期、大変な混乱が続いていたことがあります。
家康側、三成側、あらゆることを想定して行動しようとしているのですが、やはり人間、ミスを犯すこともあります。
あまりに多忙であったのと、これまで島津とは良好な関係であったので、文を出すことを油断していたのかもしれません。
しかしこれについては、緻密で気配りができる家康なので、考えづらいです。
当時、義弘の手勢はわずか200でした。
島津にお金を貸して、島津の財政事情や義弘の立場を理解している家康は、留守を頼んでみたものの、正直の所は戦力として期待すると気の毒だと思ったのかもしれません。

家康は伏見城を、「おとり」にしたと言われます。(小和田哲男著「関ケ原から大坂の陣へ」P78参照)
おとりとは、三成の挙兵をさそうためであり、三成側の兵を足止めさせるための「捨て石」でもありました。
そうだとすれば、そんな城に義弘を置くのはどうかと考えたかもしれません。

他にも理由が考えられます。
家康は、三成がこれほど早く、しかもたくさんの兵をまとめあげ、急ぎ伏見城を攻めてくるとは考えていなかったので、情勢を見つつ、義弘には違う役割を与えようと考えていたのです。

いずれにしても家康は、義弘に指示を出していなかったことを、後に後悔したのではないでしょうか。





7月12日、佐和山城で石田三成、大谷吉継(おおたによしつぐ)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らが密談し、総大将として毛利輝元(もうりてるもと)を迎え入れることを決め、その書状を毛利に送ります。
※一説には、三成と恵瓊は以前より密談を進め、輝元を巻き込んでいたとも言います。



島津の「旧記雑録」に、興味ある史料が「覚」として残っています。
書いた人、日付は不明ですが、内容から推測すると義弘近くの家臣かだれかが7月12日に覚え書きとして書かれたともので、「義弘が伏見城の本丸か西の丸に入ろうと2度にわたって申し出をしたが納得をしてもらえなかった」とあります。
さらにこの「覚」の記述の中に、義弘は三成が決起したことを、まだ知らされていなかったことがわかる所があります。(桐野作人著「関ケ原島 津退き口」P69参照)





同月13日、細川ガラシャの元に「三成が東軍(この時はまだ家康側)についた大名衆の人質を取る噂だが」という情報が入りました。
会津征伐のため、残っているもので、その対応策を考えています。

さらに三日後の16日に、三成側から正式の使者が来ています。(「細川家記霜女覚書」参照)
この日、ガラシャは「ほんとうに押し入って来たときは、そのままご自害」すると決心し、その段取りを留守をあずかる家来と示し合わせています。(「関ヶ原の役」P334~343)
この頃、諸将の家では、妻子を密かに脱出させたり、柵を作り外出しないようにしたりと、相当に混乱しています。


書状を受けて輝元は広島を出発し、16日夜に大坂に到着、大坂城西の丸に入ります。
西の丸は、直前まで秀頼の後見人、家康が居た所です。

留守であるのをいいことに、輝元は留守を守っていたものを追い出し、そこに入ったのです。
さらに輝元は、子の秀就(ひでなり)を豊臣秀頼(ひでより)がいる本丸に送り、そばに仕えさせます。
公儀(民を支配するもの)は秀頼であることに変わりは無いのですが、父子で豊臣家を丸抱えしたことで、大坂はもとより、京都を含む、近畿や山陽道一帯は、家康でなく毛利輝元が掌握します。



17日に送った「内府ちがいの条々」の書状により、数日間の内にぞくぞくと大阪に諸将は集まり出しました。
近畿や山陽道を中心に、兵9万4千(「関ケ原の役」参照)であったと言われます。
大坂はたくさんの兵が集結し、主要な道での行き来は監視され、家康側についた諸将の妻子が人質にされるなど、ものものしい騒然とした雰囲気になります。

まさに臨戦状態で、現代の我々に理解しやすい言葉を使うと、クーデターが起こったような状態と言い替えられるかもしれません。
この頃の京や大坂における流れは、完全に三成側にあり、秀頼様の御為(おんため)と、その士気は高まっていました。


藤堂高虎の家臣が書いた「平尾氏箚記」に、この頃家康は「御成敗」「徳川様今度滅亡」と、世間のうわさがあったと伝えられています。
今回のことで、家康が滅亡するとまで言われたということですから、家康がかなり劣勢におかれたと一般には受け取られたようです。

ここまでは三成のほぼ思惑通りに、進んでいるように見えます。
義弘と島津の兵は、この大きな流れのまっただ中にいました。
関ケ原の合戦 北国街道 島津義弘の陣跡
陣地近くに通っていた旧街道の北国脇往還



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