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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

島津義弘の陣跡6  亀寿を守る 

義弘には、自分の身より大切にしなければいけない人がいました。
これが西軍につかざるをえない、もう一つの大きな理由でした。


義弘は義久に7月14日の書状で「かミさま(亀寿(かめじゅ))御進退、何方(いずかた)へ移し申すべき哉(や)と談合最中に候」と送っています。
(桐野作人著『関ケ原 島津退き口』P84より引用、以下も参照)


亀寿は義弘の嫡男、忠恒(ただつね)の正妻で、天正15(1587)年以来、豊臣政権の人質として最初は聚楽第、その後は伏見城下の島津家屋敷にいました。
義弘の正室も人質として京に居て、同じ伏見城下の島津屋敷にいました。


7月14日頃より、西軍は東軍側に付いている諸将の妻を人質に取ることを始めたので、義弘は亀寿の身に、危険が及ぶかもしれないと心配しました。





亀寿は、義久の嫡女(ちゃくじょ)で、嫡女とは家督を継ぐべき女子、正室が生んだ、通常は長女のことです。
義久に男子ができなかったので、跡継ぎとなる嫡子は女子となり、長女、二女は外に嫁いでいったために、亀寿は三女でしたが嫡女、跡継ぎになりました。


義久は亀寿のことを、とても可愛がっていました。
どれぐらいかというと、慶長5(1600)年8月中旬、義弘が大坂の危険な状況を知らせる中で、にわかに心配になってきたからと思われますが、亀寿の替わりに島津の主君である自分が、人質として替わりになると、忠恒を通じて義弘に申し出ているぐらいです。
君主が自ら人質になるとは、通常考えられないので、義久とすれば、それぐらい亀寿を大事にしろと、圧力をかける意図もあったのかもしれません。


もともと自分の世継ぎとして義弘の嫡男、久保(ひさやす)と、嫡女である亀寿を結婚させるのですが、朝鮮の役で、不幸(享年21)にも久保は病没しました。
将来を期待していた久保であっただけに、義弘も深い悲しみに襲われました。



久保の死後、文禄3(1594)年9月、豊臣側は久保の弟、忠恒を島津の次の当主とするように命じ、義久は忠恒を亀寿と結婚させることで、世継ぎとしました。
二人は同年9月から11月2日までの間に、結婚したと考えられます。
亀寿は忠恒の五歳年上、亀寿は兄の久保の妻であったので、忠恒とは再婚になりました。
この後、忠恒は父の義弘と一緒に、朝鮮の役に5年ほど参戦しています。
形式上結婚はしたものの、実質的な夫婦生活は時間的に少なかったように考えられます。



忠恒が朝鮮より帰国した後の慶長4(1599)年2月、義久は島津本宗家(ほんそうけ)の家督を忠恒に譲ります。
家督となってすぐの3月9日、忠恒は家臣筆頭を殺害し、その事件の責任を負って蟄居(ちっきょ)します。
この事件は、豊臣政権に対する反逆行為に等しいものでした。
当然、三成は激怒しますが、家康は忠恒に対し、三成の反対を押しのけて蟄居を解くなどしたと言われています。


その後、この筆頭家臣の嫡男は籠城して内乱を起こし、島津は対応に追われます。
庄内の乱と名付けられたこの乱はなかなか治まらず、その終息は関ケ原合戦の4ヶ月前でした。
家康はその鎮圧のため、さまざまな支援を忠恒に行っています。
義久はこの内乱を治めることで、再び家臣を自分の元に掌握したと言われます。
義久、また忠恒は、この乱の顛末(てんまつ)で、家康に御恩を感じるようになったと思われます。予想外の戦費は、島津の財政をさらに圧迫し、関ケ原合戦参加に不利な状況に追い込みました。


 


亀寿と忠恒ですが、あまり仲がよくなかったとも言われ、亀寿と忠恒の間にはなかなか子ができませんでした。
義弘はまた、武将としての能力も、疑っていました。
そこで義久は忠恒の替りに、外孫であるが、自分の二女の子を嫡男としてはどうか、とも考えていました。
忠恒の世継ぎとしての地位は、かなり不安定なものだったのです。



義久、忠恒と遠く離れた京で、亀寿はずっと人質となっていました。
もしもその身に何かがあったとするなら、義久は怒って、忠恒の家督(かとく)権を奪う恐れがありました。
亀寿の近くに居た義弘は、亀寿の身を守らなければいけない責任もあったように思われます。
このような理由から、義弘は亀寿を、自分の正妻より上に見ていたぐらいでした。



この時点で、大きな三成の誤算といえる事件が起きました。
ガラシャの自害事件で、人質として取ることが、まさかこんな事件になるとは思っていなかったと思われます。
西軍は人質策で、悪い影響が起こることを警戒したので、この後、人質に取るという命令をしなくなり、大坂の城下も静まりました。(「関ケ原の役」P342より引用)
家の周りに柵をつけ、監視をしていたようです。

大坂は静まったとはいえ、依然として西軍支配下にありましたので、義弘は亀寿のことが気がかりでした。
伏見城での一件もあり、いよいよ西軍参戦の意志を固めたと考えられます。



7月18日、西軍総帥毛利輝元の名で、伏見城明け渡しの要求が突きつけられます。
元忠は当然のように明け渡しを拒否し、翌19日から伏見城攻めがはじまりました。
西軍4万の大軍が、わずか1800の兵で防備する伏見城を包囲します。
義弘率いる島津隊は、その中にいました。

関ケ原の合戦 薩摩藩・島津義弘の陣跡
小池地区にある島津義弘陣跡

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