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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

島津義弘の陣跡7  勝つために戦う 

伏見城での戦いで島津隊は果敢に戦い、22人を失った他、負傷者もたくさん出しました。
義弘は忠恒への書状で、「いよいよ無人共なかなか申すべきようもこれなく候」と、さらに兵が少なくなってどうしようもない、というように言っています。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P100引用、以下参照)


太閤検地などで三成に御恩を感じている義弘は、西軍に付くと決め、義久に増援を求める書状を送っています。
豊臣政権は義弘を通じて検地などを進めてきました。
三成は豊臣政権下で島津との取次役を務め、豊臣配下の大名としての指南を様々に行ってきました。
義弘は義久と違い、豊臣政権配下で島津が安堵したことに、感謝の気持を持っていました。
それでも義弘は最後は義久をたて、その気持ちを察していたこともあって、7月2日から17日までに何度か、三成からの誘いを固辞しました。(山本博文著「島津義弘の賭け(中公文庫)」P263より引用「惟新公関原御合戦記」)



残っている書状を見ると、7月14日から、9月7日までに11通、薩摩に増援を求める書状を送っています。
東軍、西軍に関わらず、一度参戦を決めたら、勝つために何が必要かを考え、積極的に行動しています。
熱い思いは遠く薩摩に、なかなか伝わらなかった面もありましたが、義弘の人柄を感じます。



関ケ原合戦前の前、会津征伐に際して家康は、各大名に兵の割り当て(軍役)を課します。(「関ケ原の役」P299)
軍役は、領地の石高に応じました。
会津征伐の場合は100石に三人になりますが、上方(京都、大坂方面)の留守を守る大名は、100石に一人の軍役でした。

西軍はどのような軍役があったのかはわからないのですが、関ケ原関係の書籍を見ると東軍にならって考えられるようです。
島津氏は石高でいうと62万(55万とも言われる)石ですが、軍役を課せられない部分を差し引くと、約41万石です。
これを当てはめると、島津氏は4000人ほどの軍役になります。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き)」P93引用)
義弘は書状で、長宗我部盛親が本来2000人の軍役で5000人であること、立花宗茂が本来1300人の軍役で4000人であることを引き合いに出し、嫡男の忠恒に、3500人ほど上京させるように指示をしています。



実際に関ケ原合戦で義弘の隣に布陣した小西行長(こにしゆきなが)は石高20万石ですので軍役は2000人ですが、実際には6000の兵を備えました。
会津征伐で言うと、会津行きの軍役に準ずる兵を用意したと考えられます。
義弘隊が、いかに少ないのがわかります。

書状からは、他隊と比べ兵が少なく恥ずかしく思う気持ち、武将としての任がまっとうできそうもない、悔しさが伝わります。


義久からの増援はなりませんでしたが、義弘を朝鮮の役の時から敬っていた甥の豊久が、すでに同年5月に京に来ていました。
なぜこの時に上京していたのかはわかっていませんが、義弘が呼び寄せたのか、庄内の乱の件で家康へのお礼のためなのかもしれません。




豊久は城持ちなので、直接動かせる兵がいます。
豊久の2万8千石の領地から考えると、兵は300ぐらいだと考えられます。




豊久は西軍挙兵がなければ、薩摩に帰国する予定でいました。
大坂滞在中、挙兵によって義弘につき従って行動するようになり、その後、阿多長寿院盛淳(あたちょうじゅいんせいじゅん、一般にはもりあつ)、山田有栄(やまだありなが)など、義弘を慕うものが少しづつ、薩摩から加わっていきます。
盛淳は義弘の家老でしたが、有栄は義久に信頼された老中でした。
それにも関わらず、義弘のもとに馳せ参じたのです。



盛淳は70強の兵を率い、合戦直前の9月13日に大垣城に着きました。
13日朝、三成は兵1000を派遣し、盛淳を出迎えに来ています。
緊迫した情勢下での増援に、喜びを隠せないぐらい感激したのでしょうか。
また13日昼、義弘は盛淳の到着を知ると、門外に出て招き入れました。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P239引用、以下参照)

島津隊が西軍参加を決めたときには兵200名ぐらいでした。
8月20日頃には1000人に増え、さらに少しづつ増えて、合戦時には1500名近くになりました。
それでも義弘が考える戦をするには、少なすぎました。
しかし集まった兵は一人一人、自らすすんで義弘のために命をかけるつもりでやってきたのです。



合戦前日の夜、大垣城の西軍諸将は、守備隊を残し関ケ原に向かいます。
隊列の順番は、一番目が三成隊、二番目が島津隊、三番目が小西隊、四番目が宇喜多隊でした。
(「関ヶ原の役」参照)
旧暦の9月14日は、新暦では10月20日。
冷たい雨がひどく降る中を、進軍しました。

関ケ原合戦 決戦地
雨の関ケ原決戦地から周辺の山を望む。決戦地は、最も激しい戦が行われたと思われる地。

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