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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

オジの私的山城案内

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石田三成の居城だった佐和山城跡の山頂(主郭跡)直下に残る石垣の一部です。


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上平寺城跡から見た弥高寺跡。坊跡が階段状に並んでいるのが分かります。
草原状になっているのは、長く地元のひとびとの草刈り場になっていたためです。


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弥高寺跡からの琵琶湖方面の眺望。
西軍の敗走路となった中山道(東山道)はもちろん、
彦根や安土、湖西の山なみまではっきりと眺められます。


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小谷山最高地点にある大嶽丸(おおづくまる)跡。小雪のちらつく中、静かな山歩きを堪能しました。

                             

オジです。昨年の秋から関ケ原でお仕事をさせていただくようになりました。
もともと山歩き(特に藪山歩きや沢登り)は好きだったのですが、この仕事に携わるようになってから、プライベートでも山城巡りを楽しむようになりました。

関ケ原ファンにはお馴染みの松尾山城(小早川秀秋が布陣した山城)や竹中半兵衛の居城だった菩提山城はもちろん、上平寺城(じょうへいじじょう=京極氏の本拠地)、小谷城(おだにじょう=織田信長に滅ぼされた浅井氏の居城)、虎御前山城(とらごぜんやまじょう=小谷城攻めの際の織田方の陣城)、言わずと知れた石田三成の佐和山城など、近場の城から順番に回っています。

お勧めは、何と言っても松尾山城です。戦国時代の初頭から境目の城として使われていたこともあり、山頂の主郭を中心に、複雑な縄張(なわばり)が今もはっきりと残っています。

眺望という点では、上平寺城から西隣りの弥高(やたか)寺跡を回るコースもお勧めです。
弥高寺は、伊吹山を巡る山岳寺院の一つでしたが、京極氏がこの地を支配していた頃は、上平寺城とともに、京極氏の軍事拠点として使われていたようです。

この弥高寺跡からの眺望が素晴らしい。
東を見れば、関ケ原古戦場、眼下には北国脇往還、その向こうには中山道(東山道)、西方に目を転じれば、うっすらと光る琵琶湖東岸の彼方に佐和山城跡を望むこともできます。
関ケ原合戦当日、ここに立っていたひとは、合戦の火蓋が切られてから、西軍の兵たちが西へ西へと雪崩を打って敗走するまでの一部始終をすっかり見届けることができたに違いありません。

小谷城は、城の遠近(おちこち)に支城を従えた浅井氏の名城です。浅井氏が滅んで廃城となりましたが、大石垣や大堀切、逆茂木(さかもぎ)の跡など、興味深い遺構を数多く見ることができます。また、丁野(ようの)城や中島城、山本山城などの支城や、織田方の陣城だった虎御前山城を目のあたりにすると、小谷城の落城に先んじて愛する妻子(お市の方と浅井三姉妹)を避難させた長政の思いもなおのこと胸に迫ってくるようです。

意外と知られていないのが、南宮山の毛利秀元陣跡(陣城)です。もちろん、そこに毛利秀元陣跡があることは、ほとんどの皆さんがご存じだと思います。しかし、当地に曲輪や土塁、空堀などの遺構が残っていることを意識して観察された方は、それほど多くおられないのではないでしょうか。

松尾山城跡の縄張り図は一般書でもよく紹介されていますが、毛利秀元陣跡の縄張り図はほとんど見ることがありません。興味のある方は、岐阜県教育委員会発行の『岐阜県中世城館跡総合調査報告書(全4巻)』をご覧ください。岐阜県図書館をはじめ、岐阜県内の図書館の多くに所蔵されていると思います(関ケ原町図書館にも所蔵されています)。

関ケ原周辺の山城のことをつらつらと書き連ねてまいりました。今後はさらに足を延(のば)して、北近江や東濃の山城を探索してみたいと思っています。もしかしたら、城跡までの山道で皆さんとすれ違うことがあるかも知れません。そのときは、にっこり笑って挨拶しますので、どうかよろしくお願いします。

リレーエッセイもこれで一巡。
それでは、改めて、イクゾーさんにバトンタッチです。

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