関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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南天満山・宇喜多秀家の陣跡

南天満山・宇喜多秀家の陣跡

南天満山・宇喜多秀家の陣跡、天満神社
 関ケ原合戦で、西軍の副大将であった宇喜多秀家(うきたひでいえ)の陣跡(じんせき)です。
 秀家は28歳で参戦し、最大の戦力を有する、西軍の主力部隊として東軍と戦いました。

 秀家は、美男子であったと言われ、義(ぎ)を非常に大事にする性格でした。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)には小さい頃から可愛がられ、養子にまでなったこともあり、三成の西軍への誘いにすぐに応じました。
 秀家は1万7千という軍勢(ぐんぜい)を集めますが、戦う前からの家臣(かしん)との騒動(そうどう)で、戦力としては、急造であることを否定できませんでした。
 実質的に、西軍の大将的な役割にあった石田三成(いしだみつなり)は、秀家の「一命(いちめい)を捨ててでも働く」という変わらない覚悟(かくご)を知って、大変頼りにしました。

 この近くに、福島正則(ふくしままさのり)の隊はじめ、東軍の諸隊(しょたい)が怒涛(どとう)のように何度も押し寄せました。宇喜多隊は、戦いに慣れてないこともあり、時間がたつに従い苦戦していきます。
 秀家は小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切(うらぎ)りにより、敗戦が避けられないことを悟りました。「おのれ金吾中納言(きんごちゅうなごん)=小早川秀秋」と、小早川隊に突入しようとしますが、「再起(さいき)を図(はか)るのが大将」と家臣(かしん)に止められます。

 その後、伊吹山(いぶきさん)の東、さらに現在の揖斐川(いびがわ)町の方に落ち延び、大坂を経て現在の鹿児島県である薩摩(さつま)に逃(のが)れます。
 その後死罪はまぬがれましたが、八丈島(はちじょうしま)に流刑(るけい)となり、その地で83歳にて亡くなりました。

 秀家の陣跡は、南天満山の南麓(なんろく)、上の写真の天満神社の中にあります。
南天満山・宇喜多秀家の陣跡、天満神社

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