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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

島津義弘の陣跡8  二番備え

島津隊が大垣を出るときですが、用心深いことにそれまで居た陣地に、竹を植えて火縄を挟み、火をつけて、多数の兵が群がっているように装っています。(旧参謀本部編纂「関ヶ原の役」P206引用)
さりげないことかもしれませんが、島津が歴戦の部隊であることがわかります。


午前4時ごろ、島津隊は関ケ原小池地区の小高い地に着陣したと思われます。
美濃から近江に抜ける、北国街道(北国脇往還)を抑える要所に位置します。
三成隊の側面を守り、島津隊と三成隊が北国街道をはさみます。
同じく15日朝に布陣した三成隊は柵を急きょ作ったようですが、義弘は柵を作ることはしませんでした。


三成は、墨俣など関ケ原合戦の前哨戦で、島津の力を借ります。
義弘は戦歴において、西軍はおろか東軍の大将の中でも並ぶものがないほどであったので、いざという時に頼りにしていたのではないでしょうか。
明らかに三成は義弘に、西軍の諸将と違う気遣い、敬う気持ちで接しています。





島津隊は合戦に関する島津側の資料で最も信頼性が高い「旧記雑録後篇三」によると、「二備」「二番備」とあります。
島津隊は最初から、先頭を切って相手に挑んで打撃を与える、先手備えではなかったようです。
東軍側に残る史料にも、「後備」「脇備」「石田が(三成の陣の)後ろに」という言葉が使われています。

一般に島津は、勝敗が決するまで傍観していたと言われます。
島津はあらかじめ協議のうえ、二番手として出陣の機会を待っていました。

合戦は実質的に三成が主導していたので、三成が中心となって当日の戦い方を決めました。
黒田長政の伝記「長政記」によると(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P116参照、以下同様)、三成は最初、島津隊を先手として考えていました。
しかし島左近(しまさこん)の忠告を聞き入れ、左近を先手とし、島津を横撃(脇備えのこと)にしたと言われています。
決死の覚悟の左近の気持ちを察すると、「我こそが是が非でも先手を勤める」というものであったと思われます。


なお「義弘譜」によると、開戦していくらか経過後、義弘は三成に使いを出し、あらためて戦の進め方の確認も行っていますが、行き来する中で思いがけず、秀秋の大谷隊への攻めがはじまったと史料にあります。



戦場で勝つためには、先手備え、二番備え、後陣の役割を、それぞれがきちんと担うことが大切であり、統率を取れた行動をすることが大切です。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P117引用、以下参照)
たとえば二番備えの隊が、形勢が悪いからと、自分の判断で勝手に動いてはいけないというのが、戦での決まりごとです。

先手備えも、戦う間に疲労して戦力も落ちてきます。
二番備えの役割は戦いの仕方でいろいろあると考えられますが、一般には戦力が落ちた時に次の出るべきタイミングで討って出るのが、その役割です。
そのために二番備えは、兵力の温存をします。





西軍は数では劣っていたのですが、午後に至るまで東軍を押していました。
ところが三成の使者、八十島助左衛門が島津陣の先手、豊久の陣地にやって来て、戦いに加わるよう催促しました。
残っている史料から推測すると、使者がやってきた頃はすでに小早川秀秋が寝返った後と推測され、1度目ならず、2度来ましたが、断ると使者は帰りました。



島津が断る理由に、ひょっとしたらこの時、形勢が急転する中でいかなる戦いをするか、まだ義弘に、判断がついていなかったのかもしれません。
二番備えとはいえ、この時あまりにも西軍の形勢が悪かったとすれば、これから島津隊が参戦しても局面打開できるかどうかわかりません。
この時、三成のために戦うのでなく、島津のために戦うと切り替えたのかもしれません。

関ケ原合戦 島津義弘の陣跡
島津義弘の陣跡を後ろから見る。ここには豊久が、島津隊の先手として備えていました。


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