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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

島津義弘の陣跡9  残る島津

その後、三成自らが催促にやってきました。
三成は戦いがうまくいっていないことを訴えますが、豊久はもともと、家康側への参戦を主張していたと言われます。

「今日の戦闘は各隊がそれぞれに戦い、力を尽くそうではないか」と冷たく断わられました。
三成は気を落とし、帰っていきました。

三成からすれば、島津の戦力に最後の望みをかける所があったのかもしれません。
島津からすれば、二番備として機会をうかがっていたものの、「もはや勝敗は決してしまった。島津の出番はもうない」と、義弘、そして豊久も判断したのではないでしょうか。

三成が来た時間は特定できないのですが、史料を突き合わせると三成が来た頃はかなり西軍の旗色は悪く、三成が陣地に戻った頃には「はらはらと敗軍候事」((桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P124「山田晏斎覚書」引用、以下参照))と敗軍が決まったようです。



旧参謀本部編纂(へんさん)「関ヶ原の役-日本の戦史(P226より引用)」によると、宇喜多・小西の両隊が破れると、その隊の兵たちは、島津隊の前・後隊にまぎれこもうとするので、「わが隊を乱そうとする者は、たとえわが党の士といえども斬(き)れ」と義弘は命令し、陣中に向かってくる他隊は、敵味方にかかわらず排撃するように指示を出しました。



なお義弘は三成と以前より仲が良く、恩義に感じていたから、三成が豊久でなく義弘の元に催促に来たとすれば、断ることはなかったいう考え方もあります。
しかし、豊久が国に戻れば城主とはいえ、義弘の考えを尊重しないで自分の考えを述べたとは考えにくいのです。
義弘の行動を見ると、最後は島津の行方を優先して考えています。
この合戦で三成のために戦うということは、これ以上必要ないと判断したのではないでしょうか。


島津は、やむなく西軍に参加したという経緯がありました。
これまでも何度か、三成の誘いを断ってもいます。
義弘は、三成とのこれまで関係もあって西軍に参加したのです。
十二分に三成への義理は果たしたとも、考えたのではないでしょうか。





すでに味方は、大谷隊は全滅し、小西隊、宇喜多隊、そして三成隊も次々に敗走をはじめ、首級を上げようとする東軍がなだれかかるように西軍に襲い掛かっています。
乱戦状態で、敵味方も分からないぐらいでした。
家康の周りを固める旗本衆も、家康を守る役割はもはやなく、最後の攻撃に加わっていました。

味方がどんどん減り、わずかに三成が敗走した後、踏みとどまってなおも戦うものと、島津だけが隊の形を残していたと言われます。
島津はまだ、敵味方問わず陣地に入ろうとするものを退けながら、動かずにいました。
敗走する兵の中には、島津を避けて逃げ、島津の陣地の裏にある池寺池に入りおぼれたものが、数十人いたと言われています。

関ケ原合戦 島津義弘 池寺池
現在の池寺池。池の向こうに見える林が薩摩池がある所。


島津の兵は見る間に減っていました。
すでに半ば以上が死傷し、このままでは全滅が目に見えていました。(旧参謀本部編纂「関ヶ原の役」P227参照)

関ケ原合戦 島津義弘 薩摩池 
島津義弘が布陣したと言われる小池地区の薩摩池に至る細道

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