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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

関ケ原合戦と街道

関ケ原は、中山道六十九次58番目の宿場でした。
中山道がいわゆる五街道のひとつとして整備されたのは関ケ原合戦直後、江戸時代になってからですが、このルートは、都と東国とを結ぶ幹線道路として、古代から使われていました。

特に、関ケ原宿は、伊勢街道(伊勢西街道・伊勢東街道)および北国街道(北国脇往還)の起点ともなっており、太平洋側と日本海側をつなぐ中継点でもありました。
上述した三街道は、関ケ原合戦においても重要な役割を担いました。
中山道および伊勢街道はそれぞれ東軍・西軍の進軍ルートになりました。
また、西軍が中山道および北国街道を押さえるのに力を注いだことは、中山道に大谷勢、北国街道に島津勢を置いたことからも明らかです。



これら3つの街道は、西軍の中心的な敗走ルートにもなりました。
宇喜多秀家・小西行長ら名のある武将はともかく、足軽クラスの兵の多くが、これらの街道をたどって逃走したことは間違いありません。
『時村史』(「時」は現在の大垣市上石津町時)をみると、少なからぬ数の西軍の兵士たちが落ちてきただけでなく、当地に隠れ住んだ者もいたことが記されています。



中でも伊勢街道は、島津軍の敵中突破(島津退き口)ルートとしてよく知られています。
伊勢街道沿いには、烏頭坂(うとうざか、島津豊久奮戦の地)や琳光寺(りんこうじ、阿多盛淳の墓)など、島津ゆかりの史跡が点在しています。

関ケ原合戦 玉地区に残る旧北国街道(北国脇往還)
関ケ原町玉地区に残る旧北国街道(北国脇往還)

関ケ原合戦 玉地区に残る旧北国街道(北国脇往還)<br />

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