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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

島津義弘の陣跡10  島津打って出る

押されて周りがばらばらになって敗走する中、逃げたい気持ちをおさえて陣地に居続けることは、なかなかできるものではありません。
統率が取れている島津隊では、それが可能でした。


午後2時過ぎと思われますが、義弘と豊久、盛淳との間で、残る兵全員でどうするか協議しました。



島津は最初からすぐに退くことを考えていたわけでなく、家老の阿多盛淳(あたもりあつ)や何人かの家臣は、居残って本陣を死守しようと言います。


義弘も、「せいいっぱい戦って、いさぎよく死のう」と言うのですが、豊久に「まことに御家の安危(安全か危険か)に関わる大切な御身であられるので、なるべくお退きになることがよろしい」と諌(いさ)められました。

義弘は退くことに決めると、どこが猛勢かと家来に聞き、その猛勢の中へ進むように命令しました。


家臣の考えを聞いて義弘は、自分の使命に立ち返り、豊臣家の御恩に奉公するために、二つに島津家の存続をかけ、次回のチャンスを狙うと、頭を切り替えたことのではなかったでしょうか。
こうして島津は、前代未聞、残る兵100名余(異説では200名とも300名以上とも言われています)による全軍一丸となって東軍を突き抜ける、敵中突破を始めることにしました。



打って出る前、少ない兵で戦うため、豊久はひきつけるだけ引きつけて鉄砲を放ち、一挙に出るように命令を出しました。
発砲を禁ずる軍令が出され、陣中は一糸乱れず静まりかえっていたようです。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P140引用、以下参照)
やがて宇喜多隊、石田隊がくずれ、残る島津に襲いかかってきます。



ところがあまりに押し寄せる勢いが強く、鉄砲を放ってもバタバタと倒れる屍(しかばね)を乗り越えてやってきます。
次の弾を撃つ間もなく、敵味方が入り乱れ、鉄砲が役に立たなくなり、刀を抜いて打って出るほかありません。

3、400mほど進むと、東軍は三成や秀家などの主将の首取りに意識がいっているためか、島津勢に向かってくる敵が少なくなり、退く道が開けました。




島津隊が、松平忠吉、井伊直政らと緊迫した状態で戦った記述が関ケ原町史(上巻P355)にあります。
史料を読み比べてみるとおそらく退却後であり、参謀本部編纂「関ケ原の役」によると、島津が退いて牧田川を越えようとする頃のようです。

「敵味方が備(ここでは各隊の意味?)を立寄せて(近くに寄ると)、鉄砲を迫合(撃ち合うなど激しい戦いの意味?)始まったが、中に(なかで)も下野守忠吉(松平忠吉)は、羽柴(島津)義弘の手(支配下のもの)へ馳(せ)向(か)い、義弘の軍士(兵の)松浦三郎兵衛を(に)駆寄(走り寄)せて一太刀(刀を振りおろして)切ると、三郎兵衛が請流して(さけると)忠吉の左の臂(ひじ)と手の外れを切った。

忠吉は事ともせず(切られたのを気にもしないで)、(三郎兵衛と忠吉が)馬上より組んで落ちたのを、忠吉の家人(家臣、家来)の加藤孫太郎が松浦を引伏せて其(そ)の首を取る。

下野守(忠吉は)、立上って、又敵兵と太刀打した。
近臣(家来が)四人・中間(馬を引く下人のこと)一人なので、甚だ(はなはだ)危く(危険な状態で)懸けられ(殺されそうになっ)たが、井伊兵部少輔(井伊直政)は手(味方のこと)の物を(に)下知(命令)して突懸るに(つっかかろうとし)、木俣右京・鈴木平兵衛・属兵を勵(はげま)して力戦した。
木俣が(の)手(部下)で、小畑勘兵衛(というもの)が母衣武者(鎧(よろい)の背に母衣(ほろ)をつけた武者のこと)を突伏して首を取る。

直政とともに忠吉も合戦で負傷したといわれているので、おそらくこの場面であったと思われます。



手柄をあげたい武将からすれば、退く島津は武勲をあげる、かっこうの相手であったと思われます。
忠吉は家康の四男、この時21歳でした。
直政はもっとも信頼できる家康の側近の一人で、この合戦では軍の経験がない忠吉の、後見役を仰せつかっていました。
忠吉と直政は、本日の戦いは徳川の戦いであるとして、先手と決まっていた福島正則を差し置き、合戦の火ぶたを切っています。
戦意はたいへん高かったと想像できます。

島津隊の去った戦場には、多量の戦死者と負傷兵が残り、4時ごろから降り出した雨により小川に血がそそぎ、その川で米をといだところ真っ赤に染まったと言われています。(白水正編「図説 関ヶ原の合戦P94岐阜新聞社発行より引用)

関ケ原合戦 島津義弘 島津の退き口

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