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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

大谷吉継墓と五輪塔

藤古川西岸の雑木林の中に、大谷吉継の墓がひっそりと建っています。
隣りには、吉継が自害した折に介錯したといわれる湯浅五助(ゆあさごすけ)の墓もあります。
湯浅五助の墓は、大正時代に彼の子孫が建てたもので、我々もよく見慣れた縦長直方体の作りです。



一方、関ケ原合戦後の早い時期に建てられたとされる大谷吉継の墓は五輪塔になっています。
大谷吉継の墓は、合戦当時敵方であった藤堂高虎(とうどうたかとら)の造立とされ、高虎の人柄をも彷彿(ほうふつ)させる美談として伝えられています。
五輪塔は、平安時代から作られるようになった墓・供養塔です。
重ねられた形は、下から方形・円形・三角・半円・宝珠で、それぞれ地・水・火・風・空の五大(古代インドで考えられた宇宙の構成要素)を表しています。



五輪塔については、亡くなってから50年経ってから建てる慣習のあることも知られています。
吉継の五輪塔が、仮にその慣習に従って造られたとしたら、その造立年は1650年となり、高虎の没後20年が経っていることになります。
一部の文献に、高虎と明記せず、藤堂家の造立としてあるのは、その辺りの可能性を考えてのことなのかもしれません。
ただし、そこに高虎の遺志が働いていることは間違いないところでしょう。
だとしたら、むしろ、亡き吉継への畏敬の念を長年にわたって保ち続けたことにこそ、高虎の真骨頂があるとも言えましょう。
それはまた、高虎の遺志をしっかりと形にした藤堂家のひとびとにも言えることでしょう。



ちなみに、関ケ原町内には、当地で戦死した無名兵士の遺族たちがひっそりと運びこんだ一石五輪塔(いっせきごりんとう=持ち運びできるよう一つの石を五輪塔の形に刻んだもの)が遺されている可能性もあるようです。
自然石とも見まがう路傍の小さな石標にも、古(いにしえ)のひとびとの深い思いが込められているのかもしれません。

関ケ原合戦 大谷吉継、湯浅五助の墓
大谷吉継墓(右)・湯浅五助墓(左)

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