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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

壬申の乱と関ケ原

大化の改新(645年)によって権力を掌握した中大兄皇子(天智天皇)は、天皇に即位すると直ちに同母弟の大海人皇子を皇太子に指名し、天皇中心の政治を強力に推し進めました。
大海人皇子は臣下の人望も厚く、兄である天智天皇をよく助けたと言われます。



しかし、天智天皇に男の子(大友皇子)が生まれると、天皇はわが子に皇位を継がせたいと考えはじめ、そんな兄の心変わりを弟の大海人皇子も感じ取って、ふたりの関係に溝ができてしまいます。
やがて、天智天皇は病に伏します。天皇の本意を知る大海人皇子は、大友皇子を皇太子として推挙すると、自らは出家して吉野宮(奈良県南部)に逃れました。
その後間もなく天智天皇が亡くなると、大海人皇子と大友皇子(弘文天皇)の間で、皇位をめぐる内乱が勃発します。これが壬申の乱(672年)です。



大海人皇子は、先手を打って、不破道(ふわみち=都と東国とを結ぶ街道。「不破」は現在の岐阜県不破郡付近の地名で関ケ原も含まれる)を押さえ、東国の兵を手に入れることに成功します。
大海人皇子自身、吉野宮から当地に移り、行宮(あんぐう=かりみや)をつくって、全軍を指揮したのです。



結局、東国の勢力を手中にした大海人軍が勝利し、敗れた大友皇子は自害。
大海人皇子が天皇として即位します(天武天皇)。天武天皇は、兄天智天皇が推し進めた天皇中心の政治体制をさらに確固たるものにしていきました。
『万葉集』をひもとくと、当時の天皇の威光を表すこんな言葉を見つけることができます。

「大君は神しませば…」
天武天皇は、臣下の者たちから、神にも等しい存在として崇められるようになっていたのです。


※関ケ原町内で、壬申の乱を偲ぶ場所を挙げるなら、     
野上行宮跡、自害峯の三本杉、黒血川、矢尻の池(井(い))、
井上神社、若宮八幡神社本殿(藤下・山中)、
沓脱石と兜掛石、桃配山などがあります。
関ケ原町観光ガイドブック「せきがはら巡歴手帖」に
案内が掲載されています(7ページ)。

関ケ原合戦 壬申の乱 大友皇子自害峯
迫力がある大友皇子自害峯の三本杉

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