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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

首実検と首塚

「首実検」とは、討ち取った敵方の首を大将が検分することです。
正確には、大将格は「対面」、奉行クラスが「首実検」、雑兵らは「見知」と言い、首の身分の上下によって作法にも違いがありました。
しかし、基本的に敵の戦死者は丁寧に扱われたようです。
戦死者の墳墓である「首塚」や供養塔も敵味方双方のために造られるのが通例のようで、この辺りからも、敵の死者に対する表敬の意を感じ取ることができます。



関ケ原合戦においては、勝利した東軍の大将徳川家康が、陣場野の床几場(家康最後陣地)で首実検を行っています(首実検を行った場所は、藤川台=藤古川西岸の台地とも言われます)。
ひとの心を根っこから掴んでしまう家康のことですから、礼を尽くし、しっかりと作法に則って、執り行ったに違いありません。



家康はまた関ケ原を去るにあたり、当地の領主である竹中重門(たけなかしげかど)に、本合戦で死亡した兵士を埋葬することを命じました。
東首塚と西首塚がその墳墓です。


家康は、長篠合戦の際にも、壊滅的な敗北を喫した武田軍の戦死者を弔うため、塚(=信玄塚)を築いていますが、これは、家康が特別なのではなく、戦国時代の武士に共通する価値観のようです。
敵方に対する配慮といえば、籠城戦などでも、大将が切腹することを条件に、他の多くの将兵の命を保証するケースが見られます(三木城攻め・高松城攻めなど)。



世界的にみると、特に宗教の異なる異民族との戦いにおいては、敵を皆殺しにするか、さもなくば奴隷にでもするのが当然であり、戦死した敵を悼んで供養するなどといった発想はほとんど見られなかったと思われます。
その点、わが国の戦国時代の武士たちには、ある種のヒューマニズムが浸透していたとも言えそうです。



ちなみに、東首塚は、JR関ヶ原駅西の跨線橋(その名も「古戦橋」)の北詰、松平忠吉・井伊直政陣跡碑に隣接する位置にあります。
一方、西首塚は、関ヶ原駅前から国道21号線を更に西進し、国道365号線との交差点を越えて少し行った右側にあります。
東首塚には椎(シイ)、西首塚には欅(ケヤキ)の大木がそびえ、戦死した兵(つわもの)たちを悼むにふさわしい気配を漂わせています。

関ケ原合戦 東首塚 西首塚
東首塚の石碑と大木

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