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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

慶長5年 合戦当時の関ケ原

関ケ原合戦が行われた慶長5(1600)年頃の関ケ原は、どんな様子をしていたのでしょうか。
一般に大河ドラマなどテレビで見る関ケ原合戦は、一面が草原の中で戦が行われていますが、本当にそうであったのでしょうか。

静岡大学名誉教授の小和田哲男先生監修の下、町内有志の皆さんが調査した結果をまとめた『慶長五年の関ケ原 -合戦当時の村の様子-』(関ケ原ふれあいセンター所蔵)を参考に描き出してみましょう。
この報告書は、関ケ原町立のふれあい図書館にもあります。



慶長5年当時、現在の関ヶ原町にあたる地域は、関原・松尾・藤下・山中・野上・大高・玉・今須の8村(大高は正式な村ではなかったようですが)に分かれていました。

合戦後、徳川家康が出した禁制の文書(兵士たちの乱暴狼藉を禁じる触書)の宛名が「関ヶ原町衆中」になっていることから、関ケ原は当時すでに町場化していたと考えられます。
また、当時の検地帳から判断して、関ケ原古戦場一帯にはすでに、広く田畑が広がっていたことは間違いないようです。
関ケ原合戦の舞台が、地元住民の生活・生産の場であったことは忘れられるべきではありません。



本戦前、住民に対して、特に西軍の陣地構築(松尾山城・大谷吉継陣地など)にあたって労役が課せられたことは想像に難くありません。
また、軍事上の目的から、家を焼かれたり、食料を奪われたりしたこともあったのではないでしょうか。


関ケ原合戦は旧暦9月15日(新暦10月21日頃)、上掲書では合戦当日、稲刈りが終わっていたか否かについて検討しています。

そして、合戦が終わっても戦禍を避けて逃げ込んでいた山(相川山か)から、なかなか下りてこない住民に対して御触れ(おふれ)が出ています。


当麦作早速仕付可申候 油断付而者可曲事者也
尚以苅田之跡敷半候間、仕付可申候 以上
慶長五年 十月十九日 間宮彦次郎黒印
せきがはら村庄屋百姓中
(「関ケ原町歴史民俗資料館所蔵・関ケ原合戦史料集」より)

主な内容は「もう危険はないから、早く下りてきて麦(裏作)を作るように」です。
この御触れからは、すでに稲刈りは済んでいたであろうと推測されます。
合戦から既に一カ月になりますが、まだ山奥に潜んでいる住民がいたのかもしれません。
終わってもまだ、よほど戦が恐かったのかもしれません。




いずれにしても、戦場となった村々の住民たちが被った迷惑は並大抵のものではなかったと思われます。
関ケ原合戦を考える、別の角度からの視座として、関ケ原町民の皆さんによるこうした調査・研究はきわめて貴重なものだと考えられます。

笹尾山 石田三成陣地
決戦地付近の田から、石田三成の陣地があった笹尾山を望む

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