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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

石田三成の民政

関ケ原における石田三成は、あくまでも西軍の実質的な大将としてのイメージが強く、彼を彩るさまざまなエピソードも、最終的には「武将石田三成」に収束してくるようです。

しかし、文官として突出した力量を発揮した三成の真骨頂は、戦時より平時にこそ見られたはずです。
幸いにして、三成が領した地域は、関ケ原と隣接する湖北地方であり、当該地域の図書館等を訪ねれば、多くの情報を得ることができます。





石田三成といえば、徳川時代のネガティブキャンペーンの影響から、ごく最近まで悪評ばかりが幅を利かせていたと思われがちですが、地元の郷土資料(『近江伊香郡志』・『東浅井郡誌』など)を読んでみると、決してそんなことはありません。
当地のひとびとは、三成の民政を実証的に振り返った上で高く評価し、その清廉潔白な人柄を深く愛していることがわかります。


 
『近江伊香郡志』には、当郡の各村に通達した掟書が引用されています。
その本文は、平仮名を多用して一般の領民にも理解しやすいよう工夫されています。
参考までに、二カ条ほど書き出してみると、
「百姓は総て迷惑を感ずる所あらば、直訴する事を得、但し軽率不法の直訴は之を謹むべし。」
「年貢を納むるには、一石につき二升の口米たるべし、二重袋に入れ、五里以内は百姓親ら運搬し、五里以外は百姓の暇を見はからひ、役米を遣はして運搬せしむべき事。」
とあります。

領民が訴え出ることを認め、年貢の納め方についても具体的に分かりやすく述べた上で、遠隔地については役所の方から取りに行くよう配慮していることが分かります。



石田三成の定めた年貢率は、その3分の2を貢納するのが基本でした。
これをもって苛政(かせい)とする見方もありますが、この年貢率は戦国時代当時の平均的なものであり、また、年貢率が低いことで知られる北条氏も、年貢以外のところで課税したりしていました。

現代においても、所得税率だけを見て税の高低を論じるのがナンセンスであるように、年貢率のみから苛政であったと断じることはできないでしょう。

私としては、むしろ、三成が私腹を肥やすことを潔癖なまでに嫌っていたことを重くみたいと考えます。
自分の利益を優先するなら、今、まさに絞り取れるだけ取ってやろうとするでしょうが、豊臣政権の永続を願うのであれば、領民を疲弊し去ってはいけないことなど、賢い三成のこと、とうの昔に見通していたに違いないのです。

悪政の根源は、政治家がその権力を私利私欲のために使うことです。
三成は、それを自制するどころか、心底嫌っていました。
三成の民政は、その肝心な部分がしっかり押さえられていたのではないでしょうか。

ところで、豊臣政権中枢で活躍する奉行であった三成が所領の統治に割ける時間はごく僅かでした。
したがって、実際に領内の政治を主導したのは、三成の父、正継(まさつぐ)と三成の兄、正澄(まさずみ)でした。
三成の活躍は、彼の父や兄の支えがあってこそ生まれたものだったと言えましょう。

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