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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

家康の苦労

江戸幕府の基礎を作った徳川家康ですが、幼い頃に苦労を重ねたことはよく知られています。

家康は天文11(1542)年に、三河の領主松平広忠(ひろただ)の嫡男として生まれました。
幼い頃に駿河国と遠江国の大名であった今川家の人質となり、やがて信長に従うようになりました。
家康の所領であった三河は、今川家と織田家、さらに武田家と織田家と、いずれも天下を狙う武将に挟まれていました。
生き残るため、どちらかに依存せざるをえませんでした。



家康は天文24(1555)年に14歳で元服し、16歳で今川義元の姪、築山(つきやま)殿と結婚します。
築山殿は家康より、3、4歳上だとも、また同じ歳だという説もありますが、家康は今川一族となりました。
永禄2(1559)年、18歳の時に家康の嫡男、信康(のぶやす)は生まれます。
永禄5(1562)年、21歳で家康は信長と同盟関係を結び、翌年信長の娘と、5歳の信康の結婚の約束をします。



信康の正妻になった徳姫は、父の織田信長に夫の信康が舅の築山殿と共に武田氏と通じていると、手紙を出します。
この手紙がきっかけとなって、天正7(1579)年信長は家康に、信康を切腹させるように命じます。
一説に信長は、自分の嫡子を上回る信康の能力を恐れたことや、家康の忠義心を試そうとしたとも言われます。
家康は信長の命には逆らうことができず、築山殿を殺し、信康を自害に追い込みました。
家康は父として後悔し、また信康の才能を惜しみました。
後年関ケ原合戦の時、秀忠が美濃に到着が遅れ、「長男の信康が生きていたら」と言ったといわれます。





家康32歳の時、三方川原(みかたがはら)の戦いで武田信玄と対陣し、負け戦となります。
命からがらようやく城に帰ることができ、大事な家臣を多数失ってしまいました。
この戦いは、三河だけの戦いであったのではなく、同盟関係であった信長への忠義心も試された戦いでした。
家康は信玄にさんざんやられた経験から、大いに戦の仕方を信玄に学びます。
関ケ原合戦では、信玄と戦った教訓が大いに活かされたにちがいありません。
信玄が亡くなって武田氏が滅ばされると、家康は家臣をたくさん採用しています。
ただし戦国時代、滅ばされた相手の家臣になるということ自体は、それほど不思議なことではありません。



上の二つの出来事は、家康にとってとても大きな犠牲を伴いました。
家康とすればそうせざるをえない、苦渋の選択でした。

自分に力が無いから、信長に従わざるをえなかった、肉親に手をかけざるを得なかった。
二度とこうした思いをしたくない、そのためにはだれの命にも従う必要がないほど強くなろう、そんな気持ちがわき起こってきたのではないでしょうか。





家康は有能であった家臣、本多正信のように、一度自分を裏切ったものも、再び迎え入れています。
戦国時代、裏切りや寝返りは当たり前で、力のあるものが上をやっつけて、のし上がっていきました。
大将であっても、力の無いものは殺され、淘汰されていきました。

この時代、いつ誰に、足元をすくわれるかわかりません。
求められていたのは相手を裏切らない律義さや、寛容さであったように思われます。
家康は幼い頃の苦労により、戦国時代が持っていた問題性を、いち早く見抜いたと思われます。


なお関ケ原町で、2013年10月19日(土)と20日(日)の二日間、関ケ原合戦祭り2013が開催されます。
徳川家康を初代とする徳川宗家の現当主、徳川恒孝氏のトークショーが、静岡県立大学名誉教授の小和田哲男氏を聞き手にしてなされます。

関ケ原合戦 桃配山 徳川家康 最初陣跡
家康が関ケ原に来た9月15日朝、最初に陣を構えた桃配山。家康は3万の兵を連れてきた。


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