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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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家康の修正力

慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の決戦となった関ケ原合戦は、半日で終わりました。
後世の私たちから見ると東軍完勝で、大将の家康は、楽に勝てた戦いのように見えます。
しかし家康は、いくつか見込み違いをしていました。
一つ一つは大きなことでなくても、相乗効果で西軍が勝利する可能性はあったように思われます。
たとえば以下のものが、考えられます。



1.7月15日、家康が上杉征伐に出かけた後、家康に従ってきた諸将の妻子を、三成らは大坂で人質にしました。
※諸将は妻子の行方を心配し、三成側につくことが考えられた。
※家康は大老の一人一人を順次、配下に入れることを考えていて、その手始めに上杉征伐をし、一説にはその間、三成が挙兵することを予想していなかったとも言われます。


1.7月17日に3人の奉行により、豊臣政権に対するこれまでの家康の罪を連ねた「内府ちがいの条々」の書状が全国の諸将へと送付されました。
※書状は家康を弾劾する内容で、「秀頼に忠節をつくすため」に大坂方が決起するという、家康への宣戦布告でした。
家康側と思っていた3奉行が三成側についたため、家康は三成と戦う正当性を大きく失いました。


1.毛利輝元は家康がそれまで居た大坂城西の丸に入り、西軍の総大将となります。
※すでに家康は輝元と、兄弟の契りを交わしていましたが、それにもかかわらず大老の輝元は三成側につきました。大老である毛利は、秀頼に忠節をつくすという意味で大きな大義を持ち得ます。


1.7月後半、西方の大名がたくさんの兵を大坂に集積させ、輝元、三成らが大坂、京都を支配下に置いたこと。
※大坂の軍勢は9万4千人ほどになりました。その頃家康側が東方で集めていた兵力と比べると、大きな兵力差がありました。


1.味方にしたいと思っていた島津が西軍につきました。
※島津の力を恐れていた家康は、以前より義弘を味方につけようと様々なアプローチをしていました。
その結果義弘に、伏見城の守りを担う約束をすることができました。
ところが家康の家老、鳥居元忠(とりいもとただ)は任務に忠実にあろうとするあまりか、義弘のみならず小早川秀秋の入城を断ったため、東軍につくつもりでいた島津は西軍につきました。


1.信州経由で上洛予定の、家康の嫡男、秀忠率いる隊の西行きが遅れたこと。
※信州上田の真田隊が予想以上に強かったために足止めを食わされたこと、天候が悪いために秀頼への使者が遅れたこと、また秀頼隊の進軍も悪天候のために遅れました。


1.関ケ原合戦の日、実動戦力を考えると優勢なことは必至と予想していたにかかわらず、午後になっても西軍が思いのほか頑張っていたこと。
※理由の一つに、朝から霧で視界が悪く、特に笹尾山から関ケ原宿方面はなだらかな傾斜があり、高低差で三成の方が優位に立っていたことがわからなかったことが考えられます。
また大谷吉継が9月3日に関ケ原の山中村に布陣すると、松尾山をはじめ、中山道や北国街道まで陣地づくりをすすめていたという説もあります。




あまりにたくさんの諸将が関わり、多くは自分の思惑、利害関係のために戦った合戦でえした。
そのためにこの他にも、たくさん予想だにしなかったことがあったと考えられます。
そうした家康の見込み違いを考えてみるのは、興味深い所です。


家康は関ケ原合戦の前から、情報収集と先読み、根回しに力を入れ、きめ細かい修正を怠らずに続けました。
家康が合戦に関係して、180通ほどの書状を出しているのはその一つです。
時には自分の判断違いを認め、家臣の意見を素直に聞き、戦いの渦中で瞬時に修正できる力を家康が持っていたと考えられます。

関ケ原合戦 桃配山 徳川家康 最初陣跡
家康が関ケ原で最初に陣した所に登る階段で、国道21号線に面している。陣跡には家康が合戦方策について討議した時、テーブルとした岩、座った岩もある。

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