福島正則の陣跡
福島正則(ふくしままさのり)は、武断派(ぶだんは)で有名な武将です。
武断派とは、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の元で、主に軍務(ぐんむ)に秀(ひい)でた武将の派閥(はばつ)のことです。
対して、秀吉の元で政務(せいむ)に秀でた武将もいて、この派閥のことを文治派(ぶんちは)と言います。
石田三成(いしだみつなり)は文治派の一人で、この2つの派閥の感情的な対立が、関ケ原合戦を左右する大きな要素の一つになりました。
正則の母は秀吉の叔母(おば)、秀吉からすれば正則は24歳離れた従兄弟(いとこ)になり、小さな頃から秀吉に仕(つか)えてきました。
武断派と文治派の対立、特に三成と反(そ)りが合わないために徳川側についたと言われますが、それだけではなかったという説もあります。
秀吉に育てられた恩に報いようという気持ちが人一倍強かった正則は、秀吉の死後、秀吉に替わり強大な権力を持ちつつあった徳川家康(とくがわいえやす)を抑(おさ)えたいと、考えました。
そこで正則は、秀吉恩顧(おんこ)の大名達が、合戦で功績(こうせき)を上げ、家康側の勢力を抑えることをねらって、家康に付いたとも言われます。
こうして正則は家康側につく条件として、秀吉の子、秀頼(ひでより)を粗略(そりゃく)に扱わないと、家康に約束させています。
正則は小山評定(おやまひょうじょう)では、並み居る武将に先駆(さきが)け、三成を討つことを主張し、ほとんどの武将も正則に同調し、京の方に西進(せいしん)することを誓(ちか)いました。
正則は関ケ原合戦の日、宇喜多(うきた)隊に向けて先陣(せんじん)を切る予定でした。
ところが家康直属(ちょくぞく)の武将、井伊直政(いいなおまさ)、松平忠吉(まつだいらただよし)に、先を越されてしまいました。
急ぎ正則が命じ、福島隊も宇喜多隊に向って攻撃(こうげき)を開始しました。何度も引いては寄せと、壮絶(そうぜつ)な戦いをしたと言われています。
正則は東軍勝利に貢献(こうけん)したことが大いに認められ、所領(しょりょう)は尾張清須(おわりきよす)20万石から、安芸広島(あきひろしま)49万8千石へと加増(かぞう)されます。
しかしその後江戸時代になると、城の改築(かいちく)を無断(むだん)でやったと咎(とが)められ、大幅に減封(げんぷう)されて、信州川中島(しんしゅうかわなかじま)に移されました。
陣跡碑(じんせきひ)は、春日(かすが)神社の境内にあります。
そばには樹齢(じゅれい)8百年の杉の巨木(きょぼく)が、立っています。
この木は、関ケ原町歴史民俗資料館(れきしみんぞくしりょうかん)に収められている関ケ原合戦図屏風(かっせんずびょうぶ)にも、描かれています。
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