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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

島津豊久の生き方②

豊久は中務大輔(なかつかさたいふ)、侍従(じじゅう)に命じられたのですが、この役職は朝廷の官職で、官職は戦国時代、実際には名目化し、特に仕事があるというわけではありません。
中務の役割は本来、天皇の近くに居て、様々な宮中の政務をしたとされます。
侍従は、殿上(てんじょう)に上がることができる資格がある、名誉な役職です。

上下関係や、名誉を重んじた武家の習いとして、官職を授かるということは大変誇りことでした。

例えば石田三成は、治部少輔(じぶしょうゆう)、大谷吉継は刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)という役職で、その役職が、広く当時、書状などで使われていたことは知られています。



豊久は若い頃、父と同じ「又七郎」という名前を名乗っていました。
官職も父の家久と同じになりました。
豊久は、官職を授かったことに誇らしい気持ちになったと思われます。




慶長5(1600)年5月12日に伏見へ来ます。
なぜ上京してきたかですが、「本藩人物誌」という史料には、「参勤のため」とあります。


当主である豊久は、時期的に庄内の乱が平定された直後なので、家康にお礼も兼ねて上京してきたのだと考えられます。

豊臣政権に帰国の許可を得て一カ月ほど大坂に滞在した後、薩摩に戻る予定でいました。
ところが大坂滞在中の同年7月17日に、毛利輝元は大坂に来て、家康が会津に出発する前にいた、大坂城西の丸に入ります。



家康に城の留守を預けられていたものを、追い出して入りました。


義弘は家康との約束で東軍として参加するために伏見城に行くのですが、入城できず、やむなく西軍の側につきます。
そこで豊久は国に帰らず、父のように慕っていた義弘と一緒に行動することになりました。

8月1日には西軍として伏見城を攻め、城番の鳥居元忠らは戦死して落城します。

8月15日には伏見より佐和山に行き、美濃に向かいます。
豊久は三成に、関東勢(東軍)は岐阜城を攻めるので、江渡の渡
(長良川沿岸の岐阜市河渡のことと思われます)を防ぐように言われ、警護します。
義弘の命により、本田親正(義弘の家臣?)が足軽とともに豊久の隊に加わります。

関ケ原合戦 島津豊久 江渡の渡 岐阜市 河渡橋付近 
写真は江渡の渡があった所、河渡橋の上流付近から岐阜城を見る。


岐阜城の戦いは激戦となりましたが、8月23日の1日で落城し、東軍はさらに西に進軍してくることが予想されました。
それを遮るため、豊久は退くべしという命を受けます。
大垣城外の楽田(大垣市)に退いて着陣します。

9月13日に大垣城の義弘の陣へ、今後の指示をうかがいに行ったところ、三成もそこに来ました。
その日、義弘の家臣、山田有栄(ありなが)が大垣城に到着します。
有栄は武勇で鳴らした父、有信と同じように勇猛な武将でした。




9月14日、義弘の命で豊久は、三成の陣に来ます。
豊久は三成に、「長い移動で敵は疲れているから、今夜夜討すれば必ず破ることはできる。惟新(義弘)が先陣を仕(つかまつ)るべきである」と言ったところ、対して三成は言います。

「もっともであるが、西軍は大軍なので、昼間の戦いで勝負を決めよう。西軍の方が有利である」

島左近も、「およそ敵の不意をつくのは、戦力が等しくなく、こちらの戦力が弱い時である。今味方は大軍であるが、敵は小軍である。家康がいくら雄大な計略をもっていたとしても、恐れるに足らない」と言い放ちます。

豊久は、義弘の命を受けて進言したのに、軽く扱われたことに腹を立てます。
島津が歴戦をかいくぐってきたことに、プライドがあります。

豊久は腹を立てて言います。
「あなたは家康を恐れるに足らずと言うが、家康の逃げる所をみたことがあるか」

左近は「甲州にいたとき、たびたび家康が逃げるのを見た」と言い返します。
左近が甲州、つまり武田氏の元にいたという事実はないので、とっさに言っただけなのかもしれません。



豊久はさらに、「家康が信玄公と戦っていた頃は若かったが、今は武功を積み重ね、巧みな計略、雄大な計略を持っている。
もはや日本国中、家康の右に並ぶものは、他にだれもいない。
(そんな考え方では)この合戦で負けるに違いない」と断言して帰ります。
(上野尭史著「鹿児島士人名抄録」高城書房刊より引用)

島津という立場は、三成と離れた立場にあったので、より客観的に物事を見ることができたのでしょう。
三成も左近も、毛利輝元や宇喜多秀家と二人の大老をかつぎだし、大軍で大坂を支配下に置き、美濃にも多数の兵力を集めました。
この軍勢は家康の予想をはるかに上回り、このことが過信につながっていったのかもしれません。


実際は成り行きで西軍に参加した武将が多く、本心は東軍、家康の側につきたいと思っていた武将がたくさんいました。

関ケ原合戦 島津の退け口 大垣城 島津豊久
現在の大垣城

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